1: 世界@名無史さん 2009/11/20(金) 17:08:35
キングダムスレで本当は始皇帝の悪評は後世捏造されたものなんだと聞きました
阿房宮とか兵馬俑で民が疲弊したの言うのも捏造らしいのですが
誰が中心になってどうやってそれを行ったんでしょうか
捏造は歴史学が避けては通れない問題だと思います

4世界@名無史さん 2009/11/20(金) 17:18:34
ちなみにキングダムは始皇帝と李信を扱ったヤングジャンプの歴史漫画です 
200万部以上売れてます
2世界@名無史さん 2009/11/20(金) 17:13:57
兵馬俑が捏造って何
3世界@名無史さん 2009/11/20(金) 17:16:49
大規模な国政工事で秦の人民が疲弊して反乱に繋がったという説が
捏造だという意味です 
遺物自体の存在を否定するものではありません
8世界@名無史さん 2009/11/20(金) 19:38:09
人民史観(虐げられる民衆は善、虐げる王侯貴族は悪)の偏見もあるかもね 
5世界@名無史さん 2009/11/20(金) 17:41:02
タイムマシンを準備してくれ。おれが調べに行ってくる。
6世界@名無史さん 2009/11/20(金) 18:43:04
史記は漢の人間が書いたかなり漢寄りの資料だから
それを元にすると秦が悪者になるのは仕方ない
7世界@名無史さん 2009/11/20(金) 19:30:49
当時の知識階級の有力な一派であり、 
後世の知識階級の主流派である儒学者を弾圧したため 
後世に残る書物がどうしても秦に批判的になると思う。 
歴史書を書く人物はなんらかの儒教の影響はあるに違いないからな 
8世界@名無史さん 2009/11/20(金) 19:38:09
>>7 
西洋史と比較すると、 
始皇帝=ネロ 
儒家=キリスト教徒 
って感じでおk?
9世界@名無史さん 2009/11/20(金) 20:26:18
ネロに関してはキリスト教弾圧はネロ以外もやってるから、
悪評の原因要素の一つに過ぎないと思う。 

近衛隊の隊長はある程度覚悟をもって行動してるから、
実際国政に好ましくない皇帝とされたのはあると思う。 
しかし重大なのはエノパブルス一門とはいえ
アウグストウスの女系ながら続いた血統が絶えたこと。 

正当なユリウス、クラウディウス一門の後継者カリグラが暗殺されたときも
ネロ暗殺の時にも、同じ近親相姦の非難や暴君との非難がある。 
どうも同じ意図があったとしか考えられん。 

帝位簒奪の正統性をもたせるための捏造もしくは誇張の可能性があるな。 
近親相姦なんて暗殺の理由にはならんからな。 
10世界@名無史さん 2009/11/20(金) 20:31:03
でも始皇帝の悪評が捏造だとしたら 
始皇帝死後に反乱が勃発しまくったのが説明つかないんじゃない? 
結局秦はそれで倒されるわけだし
11世界@名無史さん 2009/11/20(金) 20:33:48
反乱=悪政とは限らないんじゃないの
12世界@名無史さん 2009/11/20(金) 20:39:51
とすると? 
中国で反乱が勃発しまくる背景には大抵悪政による不満ではないかな。 
それも秦の場合、三国志初頭のような宗教団体による蜂起じゃなくて 
帝国全土で火を噴くように反乱がおきたんだし。
13世界@名無史さん 2009/11/20(金) 21:01:54
封建制から中央集権を初めて全土へ広げる過程で不合理な事があったんだろ。 

雨で遅れるという正当な理由があっても死罪なら反乱も起きるわ。 

明らかに法の不備だ。
14世界@名無史さん 2009/11/20(金) 21:05:45
雨で遅れる云々自体が捏造臭い
15世界@名無史さん 2009/11/20(金) 23:14:09
まったくの捏造だけではなかろう。 
兵馬俑やら阿房宮の基壇跡やら、直道の痕跡と見られるものとか、残された 
遺跡の規模がでかすぎる。同時代のほかのものと比べても圧倒的に。 
これだけの大量動員をかけまくって、税金使いまくったら立派な暴君でしょ。 

しかし、反乱が勃発したのは、悪政が原因というより旧六国側の反感でしょうね。 
当時の秦は架空のたとえで言うと、チベット、ウィグル、モンゴル、ベトナム、 
タイ等を征服した中華帝国みたいな存在だった。征服した箇所は外国でほとんど 
植民地のような状況。トップがどうあろうと反乱が起きて当然。 
まだ中国が一つの国じゃなかった時代。 

23世界@名無史さん 2009/11/21(土) 13:40:43
兵馬俑は始皇帝と無関係という説が有力
16豚松 ◆4FfyOtW0fiF5 2009/11/20(金) 23:21:46
文革が結果として珍しくまともなことをしたのは始皇帝再評価。 
始皇帝はそれまでの中国では外道としか見なされていなかった。 
ただし毛沢東は自分が始皇帝好きだという理由と 
己を始皇帝と重ね合わせて「真の建国の父」とさせるためだけど、 
文革後の中国ではその影響もあって始皇帝を客観的に研究する 
ようになったらしい。毛沢東も一つだけ悪くはない影響を残したなw
17世界@名無史さん 2009/11/20(金) 23:53:15
ちなみに毛沢東が再評価したもう一人の極悪人こと曹操は 
好きだというと10の内9が目を丸くする位の嫌われ者だったりするけどね 
18世界@名無史さん 2009/11/21(土) 00:14:05
「坑儒」と言うけれど儒学者がことさら大きく言い立てだけで、
儒学者だけを目の敵にしたものではないらしいね。
24世界@名無史さん 2009/11/21(土) 13:56:15
儒学者だけを目の敵にしたものではなくとも 
学者を弾圧したり、書物を焼き捨てたりするのは恐ろしいこと。 
ハインリヒ・ハイネの「本を焼く国ではいずれ人を焼く」って言葉はマジ。 

まあ、もちろん、そういうことをしたのは始皇帝だけではなく 
言ってしまえばよくあることだけど。 
まあ、だからと言って、歴史を捏造するのも野蛮なことだけど。 

以前、どっかのスレで、
イラクの博物館からメソポタミア文明の貴重な遺産が略奪されたことについて 
『個人的にはユダヤ人虐殺なんかよりも非道いと思う』とか書かれていた。 
さすがに同意することはできないけど、理解できる書き込みだと思った。 
アレクサンドリアの大図書館もそうだし、
モンゴル軍によるバグダッドの知恵の館の破壊も怖すぎ。 
文明の発達が恐ろしく遅れた。ビブリオマニアな漏れはそう思う。
27世界@名無史さん 2009/11/21(土) 14:19:22
兵馬俑の兵士達の人形を調べたところ、秦軍の兵士達の武装は革鎧が多いんだってね。 
当時はすでに青銅を通り越して鉄の武具が普及してたと思うんだけど 
秦の軍隊ってかなり後進的だったってことかな? 

だとしたらなんで中国戦国時代で最強国として他国を圧倒し続け 
中国統一まで至れたのか気になる
30世界@名無史さん 2009/11/21(土) 17:20:27
正直鉄の防具品はとんでもなく重い 
そのため持久力が必要となる歩兵には本来不向きな上に
アウトレンジ作戦の格好の的になる 
また騎馬とかでも動きが制限されるから本来の得手である機敏な行動が取りにくくなる 

だから寧ろ皮装備(これでもまだ重いんだけど)の方が実践向き
31世界@名無史さん 2009/11/21(土) 17:32:04
な、なんですとーーー! 
そうだったのか。 

しかし古代ギリシャとかでも既に青銅装備、鉄装備の歩兵達が活躍していたはずでは。 
秦は金属鎧による重装歩兵の防御力による利点をあえて捨てて 
防御力には劣るけど動きやすい革鎧を選択した、って理解でいいのかな。 

でもそれだといざ敵が金属鎧で来た時、防御力に明確な差がでるような…。 
歩兵戦闘の時は大丈夫だったんだろうか。
32世界@名無史さん 2009/11/21(土) 18:36:59
中国は明時代でも革鎧普通にあるぞ。 

鈍重に動くより素早く動いて攻撃したほうが安全な場合もあるんだろ。 

33世界@名無史さん 2009/11/21(土) 18:46:55
古代ギリシャでも青銅鎧と革鎧は並行して使われてたよ 
青銅鎧を揃えられる都市でも、軽装の利を優先してあえて革鎧にしたりとかね 

ただ、古代王政軍の徴用兵や都市国家の市民兵ら短期雇用の素人兵はともかく、 
後期ローマ兵や中世騎士などの職業軍人となると鉄鎧を着こなせる訓練はしてるけどね
34世界@名無史さん 2009/11/21(土) 20:33:40
まあ、金属製武具は高いしな… 
市民兵だけで近場で小競り合いやってたギリシャや中世欧州と、 
何万規模の兵卒をかき集めて遠征して戦うシナじゃあ 
戦争にかかるコストが根底から違う
35世界@名無史さん 2009/11/21(土) 22:43:31
加えて秦の場合中心部は山がちの地形で南部は沼沢地帯 
さらに侵略者である匈奴は高機動力・定住を好まない集団 
必然的に防御力が高い代わりに
行軍の負担が大きく機動力の低い重装備は好まれなかった 

って所じゃないかな?
37世界@名無史さん 2009/11/22(日) 18:08:40
春秋戦国時代の中国は鉄鉱石を溶解して鉄を作っていた(鋳鉄)から、
ようするにできるのは鋳物で、炭素含有量が多すぎて硬いけど粘りがなくてもろい。 
だから、鉄は農機具中心に使われ、武具は青銅製だった。 

世界の他の地域は鉄鉱石を完全に溶解せず(できず?)、
赤熱し柔らかくした状態で
トンカチで打って不純物である鉄滓を除去しながら作っていた(鍛造)から、
炭素も叩き出されていて粘りがある鉄が作れた。 

中国でも焼きなましの技法や、
特に炒鋼法(おおまかに言えば、溶融鉄鉱石に脱炭材として鉄鉱石粉と、
鉄滓分離材としてカルシウムを含む鉱石を加え、
さらに溶融鉄を木の棒でかき混ぜて空気を入れ、
炭素をCO2にして放出させる)が開発されて、
ようやく実用に耐える鉄製武器ができるようになった。
炒鋼法が発明されたのは漢代なので、始皇帝の時代に鉄で武器など作れません。
作っても一撃もらえばすぐ割れちゃう程度のものしかできない。
40世界@名無史さん 2009/11/30(月) 01:41:09
始皇帝が活躍した戦国末期からかなり時代が下った頃でも、鉄製の鎧や武器は 
それなりの訓練を受けた職業軍人集団の使用がほとんどだったらしい。 

固まって突撃する騎馬軍(平地オンリー)何かが使用してたけど、
一回落馬すると装備が重くて身動き取れず、
軽装備の歩兵に普通に討ち取られる事もあったみたいだね。 


41世界@名無史さん 2009/11/30(月) 19:07:02
中世騎士もそうだけど、落馬が死につながりやすいのは重装騎兵の宿命だね
43世界@名無史さん 2009/12/05(土) 22:21:36
教育水準や民度の低い民ばかりだった古代には、始皇帝のような強健の 
独裁者でもないと大きな事業とかは営めなかっただろうな。 
それが良いか悪いかは別として。
44世界@名無史さん 2009/12/06(日) 11:25:51
始皇帝もそうだけど秦は長平の戦いやらで累計 
数百万の兵士を殺しているのだ。親の仇・子の仇と思っていたのは 
王族だけじゃなくて農民もたくさんいたので、恨み辛みが多い 

悪評が出ないほうが不思議
45世界@名無史さん 2009/12/06(日) 16:21:00
確かにそれはあるだろうな 
統一っていっても当時の中国からしたら他国に征服されただけなわけで
47世界@名無史さん 2009/12/06(日) 20:09:30
六国の王たちは国が滅んだあとどうなったの? 
斉王は松林だけの小領地に閉じ込められて死んでいるけど 
他の王たちの記録はないと思う。 
「虜にされた」だけ。
49世界@名無史さん 2009/12/06(日) 20:38:20
その後の歴史に登場しないのは死んだ(殺された)からでしょ。
50世界@名無史さん 2009/12/06(日) 21:22:13
でも漢楚戦争直前になると懐帝以下末裔だの支族だのが 
ワラワラ出てきたのを考えるとそれ以降にありがちな徹底的な根絶まではやってないな 
ただし燕の王族が自立したってのは聞いたことがないから燕だけは可能性があるけど
51世界@名無史さん 2009/12/06(日) 21:43:54
燕には荊軻送り込んできた恨みが有るからな。
57世界@名無史さん 2009/12/13(日) 04:09:51
焚書って書物を焼く 
って書いてあるけどその時代に紙って普及してたの? 
蔡倫とか出てくるまでもうちょっとかかるけど
58世界@名無史さん 2009/12/13(日) 04:31:14
木簡だろ
61Ryuju ◆RlujhF6VrA 2009/12/13(日) 15:58:10
始皇帝は後継者指名で失敗したのが悪評に繋がってると思う。 
秦王朝があと十年続いていたら、もう少し違う評価だったろう。 

彼の意中の後継者が本当は誰だったかは少し置くとして、 
少なくとも胡亥じゃなかったろうし、 
だとしたら彼の意図が歪められたことに違いはない。 
仮に本当に胡亥を指名していたとしたら 
五賢帝の最後のマルクス・アウレリウス以上に見る目がなかった。 

62世界@名無史さん 2009/12/13(日) 16:21:58
秦の余命が多少長かったとしても、
明の洪武帝みたいな微妙な評価にしかならんのでは 
土木工事やりすぎだよ
64Ryuju ◆RlujhF6VrA 2009/12/13(日) 17:38:51
洪武帝でも今の始皇帝の評価に比べたら随分ましだと思う。 

新皇帝が土木工事の速度を下げたり、規模を小さくしたりする可能性は 
あったと思うんだよね。財政的な負担もあったろうから。 
史記なんかだと扶蘇は始皇帝に批判的だったとされているし。 
皇太子が声を上げたってことは、始皇帝に臣従していた人の間でも 
その政治のやり方に批判的な勢力が一定数はいたってことだろうから。 
65世界@名無史さん 2009/12/13(日) 18:27:12
>その政治のやり方に批判的な勢力が一定数はいたってことだろうから。 
そういう連中は良くて左遷、悪いと穴埋め(坑)。 

財政負担は民衆から搾り取るつもりでいたろう。
そうでなければもっと前に止めてるだろう。
73Ryuju ◆RlujhF6VrA 2009/12/14(月) 14:00:03
それは、始皇帝的な思想が彼の死後も続いた場合だよね。 
そもそも胡亥以外の新皇帝の下で、
始皇帝=李斯的な法家主義が政権の主流思想として存続できたか? 
という問題があるわけで。 

新皇帝の資質や思考次第だと思うし、
史実では「胡亥だったからああなった」部分はかなりあると思う。 

始皇帝のやり過ぎな部分が胡亥以外の新皇帝の下で修正されて、 
毛沢東・洪武帝的な
「偉大だが過ちも犯した」的評価になっていた可能性はあったと思う。 
だから後継者指名で失敗したのが影響していると考えてるわけでね。 

74世界@名無史さん 2009/12/14(月) 15:03:30
>それは、始皇帝的な思想が彼の死後も続いた場合だよね。 
いや、始皇帝が生きていた場合だ。
死んだらあと10年続かない。既に天下に怨嗟の声が満ちあふれている以上、
軍事力で締め上げる以外の方法では崩壊を止められない。
始皇帝の重しが無くなっただけで崩壊する。
崩壊しないためには始皇帝の代でなんとかしなきゃならん。
66世界@名無史さん 2009/12/13(日) 23:17:39
始皇帝のやった土木事業↓ 

1.万里の長城 
  長城自体は戦国諸国がそれ以前から作っていたが、秦の長城はとてつもない 
  北方に長城を築く。後の歴代遊牧国家が領土とすることになるオルドス地方を 
  囲い込む無謀な延伸。輸送コスト等を考えると莫大な出費 
  あまりに北方に建設したので、匈奴を追い払いながらの工事だっと思われる。
 
2.馳道、直道の建設 
  道幅20~30m以上の大規模な道路を帝国中に建設。直道の管理がなされていたこと 
  は発掘された当時の木簡文書からも裏付けあり。かつ、2000年後の現在でもいく   つかの道路の痕跡が航空写真で確認可能なほどの規模。 

3.阿房宮の建設 
  でかすぎて未完に終わった王宮跡。現在は版築の基壇のみ確認できるが、
  紫禁城をかるく超える面積の基壇跡が残されている。
  遠くから見ると小高い丘に見える。 

4.始皇帝陵と兵馬俑などなど 
  説明不要。中国史上最大となった陵墓跡に、多分最大級であろう地下空間が 
  確認済。兵馬俑や銅馬車など副葬品も豪華すぎる。しかし、今や多数の観光客が 
  お金を落としていくので、唯一トータル収支が黒字となった事業かもしれない 

ざっと数えてこれくらい。暴君でしょ。どう見ても。
後継者がどうこうできる規模とも思えない。 
後世大いに役立った大運河を作って悪口言われた隋の煬帝の方がよっぽどマシ。
70世界@名無史さん 2009/12/14(月) 03:11:08
運河だって煬帝が作ったわけじゃない。 
始皇帝の長城と同じだ。
83世界@名無史さん 2009/12/20(日) 14:52:57
あれだけの国を併合して、度量衡や文字の統一で文化も破壊し、 
慣れない厳密な法を適用されたのでは反感があって当然だろう。 

ただ、それは当時の話で、後世からすれば建国の父と言われても 
おかしくはないだけの偉業を達成している。 
始皇帝の悪評の根本的な原因は、やはり儒学じゃないかね?
84世界@名無史さん 2009/12/20(日) 17:06:12
隋の楊堅なんかは混迷の時代を統一したのに悪評が多い 
対して唐の李世民は兄弟を屠ったり煬帝レベルの遠征失敗してるのに評価が高い 
寧ろ数百年も漢の治世が続いた事から起こった偏向と見た方が良いきがする 
そもそも史記を司馬遷が記したときは漢の真っ只中だし
86世界@名無史さん 2009/12/20(日) 17:20:25
確かに統治期間の長短が影響しているのかな。 
短命の王朝で評判が良いのってあまり見ないし。
87世界@名無史さん 2009/12/20(日) 17:27:48
煬帝が大失敗したのを太宗は見ているんだから、同じことをやるにしても 
その失敗を繰り返さないようやりかたを工夫したと思うのが自然なんだが
88世界@名無史さん 2009/12/20(日) 17:51:13
高句麗も隋も次に繋がらなかったから 
意外と太宗の失敗分、煬帝にふっかけてたりするかもしれんがな
89世界@名無史さん 2009/12/20(日) 18:21:49
隋代のことを書いた歴史書は煬帝を追い落として権力を握った連中が製作したんだから煬帝は悪く書かれていて当然なんじゃないの
90世界@名無史さん 2009/12/20(日) 18:35:26
隋の遠征第1回 612年 
    第2回 613年 
    第3回 614年 

隋書の最初の編纂終了 636年 

唐の高句麗遠征 太宗期 645年 
        高宗期 668年
96世界@名無史さん 2009/12/25(金) 00:07:51
史記は漢代に描かれた書物だから信用できないんだよな 
官製の歴史書が意図的に昔の王朝の人物の悪行を捏造するのは
中国じゃ当たり前だからね
98世界@名無史さん 2009/12/25(金) 00:46:43

史記は司馬遷が個人的に書いた物だから官製じゃない。
それに武帝に取って都合の悪い事が書いてあるために世に出さずに隠したらしいな。
司馬遷にとっての武帝は理不尽な権力者だった。 
史記の中には権力者を憚らずに正しい歴史を記録しようとした史官の話もある。
99世界@名無史さん 2009/12/25(金) 01:01:22
最近の説では官製という認識がされてるが 
信憑性はかなり薄いのは常識だし
102世界@名無史さん 2009/12/25(金) 08:30:49
結果的というか間接的に漢は秦を放伐して生まれた国であり 
かつ漢が国として存在している時代に作られたものだから
ある程度はしょうがないだろう
103世界@名無史さん 2009/12/27(日) 10:22:05
儒教が国教化された国で始皇帝がどんな風に言われるかはご存知の通り 
世界史上でもトップクラスの名君なんだがね
116世界@名無史さん 2009/12/29(火) 21:22:45
六国の王たちをどう処遇したんだろ。 
史記に「虜にされた」後の王たちの記録が無いことから 
その後は殺されたのだろう、って説を以前読んだけど 
「汝、燕王よ。今より汝の罪を問う!」とか言って 
文武百官の前で糾問してから処刑したんだろうか。 


118世界@名無史さん 2009/12/30(水) 00:05:12
史記には書いてないけど、
俺の読んでない戦国策には斉王が餓死した事が書いてあるらしい。 
自ら食を断ったのか刑死なのかは不明。 
六国じゃないけど衛君は二世皇帝の時代まで生きてたようだ。
119世界@名無史さん 2009/12/30(水) 05:12:59
ただ歴史書は儒者の立場から捏造された可能性があるからなあ 
焚書坑儒を恨まれてるんだよね始皇帝は
121世界@名無史さん 2009/12/30(水) 15:54:59
その前に『坑儒』自体が儒者がことさら大きく騒いでるだけで、
儒者だけが殺された訳ではない。 
実際には儒者で有る無しに関わらず、政策に反対する者は皆殺された。
のちに儒家が主流になってからその事件を『坑儒』と呼ぶ事にした。
つまり怨んでるのは儒者だけではない。みんなに 
怨まれてるのに名君か?
122世界@名無史さん 2009/12/30(水) 17:18:02
お前は綺麗ごとだけの皇帝が名君だと思ってるのか? 
舞妓の子供ながら若くして呂不韋を退ける怪物政治力 
六国をアッサリ滅ぼす軍事的判断力 
全てが人間離れした怪物 
始皇帝の果たした役割は中国史上でもダントツだぞ 
128世界@名無史さん 2009/12/31(木) 00:05:27
良い例があった。
春秋五覇の一人目に数えられる斉の桓公は名宰相管仲のアドバイスに従ってるうちは 
天下に覇を唱える勢いだったが管仲が死んだあとは、その遺言に従わず佞臣を近づけて末節を汚した。 
死後も後継者争いで弔いが行われずに遺体からウジが湧いたと言う。
その為に名君とはあまり言われず、物笑いの種になる事すら有る。
127世界@名無史さん 2009/12/30(水) 23:16:08
むろん綺麗ごとだけでは済まない。しかし本人が死んだとたんに
反乱が頻発して王朝が倒れるなんて名君とは言えないだろ。
130世界@名無史さん 2009/12/31(木) 01:57:33
始皇帝本人生きてる間の反乱はほぼ完全に押さえ込んでる 

端的に言うと始皇帝は自身が有能で勤勉過ぎたが故に 
後継者が無能で怠惰である可能性を考慮しなかった 
日に30kgの書類を決裁し、統一後も各地を精力的に行幸して治安維持に努めた 

本来、秦のシステムはもっと小さい国しか統治できないものだったのに 
始皇帝個人があまりにも有能だったがために、中華統一なんてしてしまった 

だから怠惰で無能な二世皇帝が即位すると統治システム、
治安維持システムが即座に破綻する 
本人が死んだ途端の反乱続発王朝滅亡ってのは始皇帝の場合、
本人の有能さの証明にしかならんのよ 

131世界@名無史さん 2009/12/31(木) 03:11:14
周とか秦とかの時代、書類は専ら木簡やら竹簡で、毛筆で書いてある。 
カマボコ板2枚分くらいの大きさのものに30文字くらいが1枚、ざっと130グラムぐらい
30kgで250枚、文字数7500文字。 
和文は漢文の字数のおよそ2.5倍だから、2万文字弱。 

今の書類、1枚に1200文字くらい平気で書いてあるから、我々の感覚で80枚相当くらいか。 中小企業の社長でも100枚くらいは読んでるよ。
132世界@名無史さん 2009/12/31(木) 03:44:19
それだけでなく車での全国行脚もしてる 
統一からの10年で5回だから相当距離移動してる 
読むだけでなくそれら一つ一つが重要な案件に対する承認や指示 
現代人の文字数ばっか多い文書とは違うし、簡単に比べられるもんじゃない
134世界@名無史さん 2009/12/31(木) 08:27:34
反乱が頻発する事自体が治世が不安定な事を示している。始皇帝が有能だったのは認めるが、有能と名君は違う。民心を安定させる事は名君・賢帝の必要条件の一つ。 

後継者の事を考えなかったと言うが、
劉邦のような成り上りならともかく始皇帝は何代も続いてきた秦の王としてお粗末。
そういう先例もたくさんあるけど名君とは呼ばれない。 

統治システムの件は始皇帝のお気に入りの韓非の理論が救ってくれる筈だったが
李斯の献言で殺してしまったのは始皇帝。
136世界@名無史さん 2009/12/31(木) 17:50:59
何代も続いてきた秦の王だからこそ
「君主ならこのくらい出来て当然」という思いに囚われる 

そのように育てられて来たし、後継者と目される息子はそのように躾けて来てる 
二世皇帝となった胡亥はともかく、
長子嫡男の扶蘇は対北方民族の防衛に当たりミスもせずしっかりこなしてる 

史記では「怒りを買って僻地に飛ばされた」という風にしたいようだが 
その時代、そこは秦にとって最大の懸案事項 
むしろ後継者だからこそ北方民族対応を任せているわけだ 

始皇帝は「後継者が無能」なことは考えていなかったし 
始皇帝生前に想定された後継者は「有能だった」
151138 2010/01/03(日) 23:46:50
一応史記は読み返した。思いつくままに書いてみる。 

まず趙高に関して。
本来死罪に当たる罪を犯したけれど秦王政は仕事熱心だったからと赦した 
という事だが、それは法の権威を揺るがすのでよろしくない。
しかもその際に蒙恬の弟の蒙毅に 
諮って死刑の回答を得た上で赦免した。
このため趙高が蒙家を怨む事になった。
赦免に決めてんなら誰にも諮るべきではなかった。 
そんな趙高に最後は玉璽を管理させてんだからやっぱまずいね。 

次に李斯。
まさに『亢龍悔い有り』。位人臣を極め、峻厳な法家の政策で怨まれてるから
始皇帝が死ねば自分も死ぬしかないのは判り切っている。
呉起や商鞅など法家の最期は悲惨と決まっている。
そうならない為には范蠡や范雎のようにある程度の時期で身を引くべきであった。
それが判っていても難しいんだけどね。 
趙高に一応はノーと言ってるけど、乗る以外に道はなかった。
152138 2010/01/04(月) 08:10:46
扶蘇の件。
どう考えても扶蘇の死に方はあっさりし過ぎだ。
扶蘇が生きていれば胡亥に対抗する事も出来た可能性も有るけど、
あんなあっさり死んでしまっては誰にもどうする事も出来ない。
蒙恬がちゃんと止めるべきだったのにホント役立たず。 

趙高の悪巧みがうまく行ってしまった一因は
公子たちを封建して一定の武力を持たせておかなかった事だな。
その点、漢はちゃんと学習してる。(呉楚七国の乱も起きてるけど。) 

一般に『天下統一したから始皇帝スゲー』って事になってるけど、
即位した時点で既に一強六弱の状態で余程のボンクラでなければ統一できる状態だった
統一後の反乱の鎮圧には始皇帝のカリスマが必要だったと思うけど。 

その後の文字や度量衡の統一などの政策は李斯の発案であろう。郡県制もそうだし。
始皇帝の発案は『皇帝』の号くらい? 

以前、焚書について読んだ時に「愚民政策じゃね?」って思った事が有った。
韓非子にも老子の思想を換骨奪胎して愚民政策として読み解いて利用してる
箇所が有る。当時の法家に共通の思考なのか?
153世界@名無史さん 2010/01/04(月) 15:15:43
「秦」という国が統一できたとしても「秦王政」が統一できたかはわからない 
そういう意味で、始皇帝ってのは稀有な統率能力で秦をガッチリと纏め上げてたし 
ボンクラじゃチンコ芸人とビッチ太后にぶっ殺されてただろうさ 

それに、一強皆弱でも信陵君の時のように連合組まれたらどうしようもないわけで 
ちゃんと配下を使って謀略戦で勝ってるから実戦でも勝てる 

始皇帝の統一事業はそんな楽な道のりじゃないよ
154世界@名無史さん 2010/01/04(月) 17:00:47
春秋五覇だって過去にいたけど天下取れなかった 
実際李牧や項燕や春申君に苦戦しており、その道は容易ではない 
漢の封建制はむしろ失敗ではないか 
結局内戦や緊張関係のもとになってるだけ
155世界@名無史さん 2010/01/04(月) 17:43:08
でも漢は呂氏が専横しても劉邦が言った通り陳平や周勃の活躍によって倒れなかった 
呉楚七国の乱が起こっても逆にフルボッコにして、結局漢は倒れなかった 
武帝の時代には匈奴をゴビ砂漠へと追い返した 

一方秦は農民が反乱を起こしただけでガタガタになり、
たった一人の奸臣により内部は崩壊あっさり倒れた 

しかも劉邦は戦場を駆け回り矢が刺さっても逆に兵士を心配させないよう
平気なふり一方始皇帝は荊軻にビビッて逃げ回り、法律のせいで誰も助けてくれず、
医者の機転に救われる始末 

しかも戦は咸陽でぬくぬくしてただけで、老臣の意見を聞かずに李信に20万だけ持たせて惨敗 
そしたら「秦が滅んじゃうよー」とビビりまくり、
頭を下げて将軍に復帰するよう頼む始末 
しかも信用されてないから、「褒美の催促しとけばいいんじゃね?」、と舐められてる 

王者ではあっても為政者ではなかったのさ
156世界@名無史さん 2010/01/04(月) 17:46:27
20万だけ持たせて惨敗しても全然気にせず60万出せる秦の国力にびびるところだろ
157世界@名無史さん 2010/01/04(月) 18:00:01
60万はほぼ秦の全兵力だよ 
むしろめっちゃ国力を気にしてたから出せなかった 
兵士百万戦車千両と言われる楚を相手に 
いかに精鋭とはいえ20万でいけると思ったところは
ろくに戦場に出てない軍事の素人でしかない
174世界@名無史さん 2010/01/04(月) 23:07:10
始皇帝の隠れた業績を広めよう 

・戦国時代に各国が河川を操って敵国を苦しめようとしていた堤防を 
 始皇帝が壊し、そのことを石碑に刻ませた 

・世界最古ともいわれる運河霊渠を築いた 

・琅邪の港町に12年間の免税を提示して3万戸移住させた 

・始皇帝が即位してから死ぬまで内戦がなかった(劉邦と大違い) 

・王家や蒙家などの功臣を粛清せず重用した(劉邦と大違い)
175世界@名無史さん 2010/01/04(月) 23:21:11
>・始皇帝が即位してから死ぬまで内戦がなかった 
その分次の世代で荒れ放題。 

>・王家や蒙家などの功臣を粛清せず重用した 
その分次の世代で粛清し放題。 

懸案を先送りしただけ。じぶんでやれ!!
176世界@名無史さん 2010/01/04(月) 23:52:08
内戦つーか反乱討伐は始皇帝の間もずっとやってたよ 
次の世代に荒れたのは討伐できなかうなったから 
懸案を先送りにしたんじゃなくて二世皇帝が無能で統治機構が機能しなかった 

二世皇帝の粛清祭りは完全に内訌で狂ったから 
判ってる範囲の秦のシステムだと別段、処刑する必要なかった
177世界@名無史さん 2010/01/05(火) 00:49:35
始皇帝が即位してから死ぬまで誰が反乱や謀反を起こしたんだ? 
粛清を先送りってあほか?先送りも何も必要ないだろ
178世界@名無史さん 2010/01/06(水) 00:31:56
反乱や謀反というか、越族討伐とか言って南方の山岳地帯に遠征軍送ってたな。 
相手は国家じゃねーのに、勝利条件がはっきりしないなかうだうだ戦いが続いていた 
ような。アフガンに遠征かました旧ソ連みたいだな。 
蒙恬とともに北方へ送った30万の軍勢も、始皇帝が死ぬまで帰ってこれんかったろ。 
多分、匈奴相手にダラダラと戦争し続けてたんだろう。 

「兵は拙速を聞くも、未だ巧久を見ざるなり」の孫子から見れば、
延々と長期戦やってた始皇帝は失格皇帝。
179世界@名無史さん 2010/01/06(水) 00:37:18
いや短期戦で異民族を追いやるとか無理だし 
先にガツンと叩いといてあと地道にコツコツって手段じゃん
180世界@名無史さん 2010/01/06(水) 00:53:04
で、長期戦により国は確実に衰退していくと。 
人類の歴史上最強国家であるアメリカ様ですら長期戦には耐えられないのだが。 
ベトナムではどうなったか。
181世界@名無史さん 2010/01/06(水) 00:59:25
そういう長期戦ができなくなった時、中華王朝が終わってくわけだから間違っちゃいないが漢武とかもそうだけど対異民族で色々やると一気に左前になったしな 

ただ始皇帝の場合、だらだらやって国家が疲弊したと言う話は聞かない 
むしろ南海貿易を確立させてプラスだったぽいよ
182世界@名無史さん 2010/01/06(水) 06:59:46
その理屈で言うと、国境警備隊は国を滅ぼすもとということか?
183世界@名無史さん 2010/01/06(水) 08:54:31
国境警備隊に大軍を長期間配備しなけりゃ略奪に遭った時代の話だから
常に適用できるもんでもないと思うがね
184世界@名無史さん 2010/01/06(水) 12:38:35
南越は始皇帝死後に派遣官吏が独立したぐらいだから 
蛮族の力は弱かったんじゃね 
蒙恬がオルドスを平定してから大きな戦いは起きていない
186世界@名無史さん 2010/01/06(水) 22:26:38
オルドスを平定したというか、常時30万の軍勢を張り付けておかねば 
ならなかったんだから平定ではないような。

イラクやアフガンを一応は統治してはいるが、
いつまでたっても撤兵できない今のアメリカ状態だったんではあるまいか。 

そもそもオルドスまで遠征する必要はなかったと思われる。
農業経営が当時の技術ではまず無理な土地柄なんだから。
187世界@名無史さん 2010/01/06(水) 22:54:47
叩いておかないと常に略奪に来る連中だから、遠征の是非は是でいいと思うよ 
領土的な遠征じゃないから領土確保のためにマンパワー取られて
国力が磨り減るってわけでもないしね
189世界@名無史さん 2010/01/08(金) 21:02:48
始皇帝は、月氏や丁零らと同盟して、匈奴の退路を断つべきだったのでは? 

包囲しなかったので、匈奴を捕捉出来ず取り逃がす事となってしまった。 
かのペルシアのダレイオス1世のスキタイ遠征と類似の状況だった思われる。 

ダレイオス1世は、サウロマタイらと同盟したのならば、
東西からの挟撃で、スキタイを捕捉出来たであろう。 

いわゆる遠交近攻であり、この時代の常識だったはずなのだが、
始皇帝は何故単独で仕掛けたのだろうか? 

おそらく、丁零はばらばらの部族だったと想像されるが、月氏は王国であったと 
されかなり有効な戦力になりえたと思われる。
190世界@名無史さん 2010/01/08(金) 22:37:49
そいつらとの連携は遠すぎて有効じゃない
201世界@名無史さん 2010/01/10(日) 03:02:05
始皇帝は、単なる領土拡大ではなく、国土を建築のように考えていた点で、 
ローマのアウグストゥスに共通しており、また先んじていたとされる。 

始皇帝とアウグストゥスは、敢て寒冷なオルドスやゲルマニアを併合したが、 
それは国境線の短縮して防衛し易い国土の建設する為であったとされる。 
さらに、共に早過ぎた征服であった事もまた共通であったようである。 

オルドス併合は、始皇帝の治世より後、匈奴が陰山の辺に定住した頃ならば、
以後永続したであろう。 

ローマ場合、アウグストゥスの治世当時、まだガリアも人口希薄であり、 
ゲルマニアを併合してもかの地を開拓する人的資源に欠いていたとされる。 
人口増大の五賢帝時代ならば、ゲルマニア開拓も現実的であったとされる。 

残念ながら、アウグストゥスの後継者の多くは、国防よりも
ペルシャの富に幻惑されていたようである。
第二のカエサルとなるよりも第二のアレクサンドロス大王となる事が
皇帝らのステータスとなり、ローマは自滅したとされる。 

アウグストゥスの意図は、実に800年後のフランクのカール1世により、
ようやく実現したとされる。 
始皇帝とアウグストゥス、ともに意図した事は最終的に正しかったのだろうが、 
両者ともタイミングが最悪であった・・・