4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/25(木) 11:20:28 ID:JCn35Xhe0
国家同士の戦争で関ヶ原や戊辰戦争と比較すると
随分とスケールがデカイ戦争なのになぜか無視同然の扱いだよね。

徳川家康や源義経は有名でも伊東祐亨や山県有朋は有名ではないし
日本の領土が増えて大国清を破ったのにも関わらずその扱いは極めて粗末。

内戦ばかりしていた日本にとっては
初めて大国を破り、しかも領土まで増やせて
帝国主義的観点、国家的視野で見れば極めて重要な話なのに
現在で日清戦争を知っている人たちがどれだけいるのか。

6名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/25(木) 15:25:15 ID:U0eGVFEm0
日清戦争のスレッドがたったことは喜ばしいことだが、 
余り語れる人がいないんじゃないか? 

日露は『坂の上の雲』とかで関心を持って調べたりして、 
詳しい人多そうだけど 

日清は名前は知ってるけど、詳しいことはちょっと・・・・・・ 
って人が多そう。
5名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/25(木) 11:52:13 ID:ErtM7WxI0
近代日本の大きな分岐点だったと思う 
勝海舟あたりは中国朝鮮と共同して西欧にあたるべきという主張をしていたのだが 
中国朝鮮の実態を知ると、戦争するしかなかった 

福沢諭吉が偉いのは、こいつらと一緒にはなれないと見切ったところ 
それは今も変わらない
7名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/25(木) 18:53:55 ID:dAKvLoiu0
>>5 
日清戦争ってのは明治維新以来の揉めに揉めた 
外交路線対決の終着点と考えることもできるかもな。 

アジアと協調するか、西欧と同じようにアジアを支配下におくか。 
明治の元勲たちがその答えを示したのが日清戦争かな。 

日清戦争開戦前からアジア支配路線にはなってたと思うけどね。 
それも含めて、外交路線の終着点かな。
8名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/26(金) 00:34:15 ID:KbKHceM60
>>7 
日本政府としては日清戦争以降はアジア支配路線で確定です 
しかし、アジア協調路線が全くなくなった訳ではないと思います 

孫文を支援して辛亥革命を起こさせたり、東亜連盟を通じて満州国を建国したり 
政府以外でいろいろあったようです
9名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/26(金) 02:30:05 ID:jkjKni9R0
辛亥革命を起こさせたり満州国建国させたりした事を 
協調路線といっていいのか疑問が残る。 

満州国建国は傀儡政権の樹立が目的だったわけで、 
植民地支配の一形態といっていいと思うけどね。 
植民地支配の定義を言えっていわれたりすると困るけど。 
方針としてはそういう感じじゃないかな。 

辛亥革命への支援は協調路線といっていいのか・・・・・・。 
協調路線ってのは、その時点で存在する国との協調じゃないか? 
国家転覆の一形態である革命に手を貸す時点で協調じゃないよな。 
アメリカのフセイン政権打倒がイラクとの協調路線なわけがないしな。
10名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/26(金) 02:33:06 ID:jkjKni9R0
おっと、論点が日清戦争からそれてしまった。 

最近吉川弘文館からでた日清戦争ってのを読んでる途中だから、 
読み終わったら又来るかもしれない。 

日清戦争が重要だってのはわかるのだが 
如何せん、日清戦争について語れるほど知識がないから。 
高校日本史でもあまり教えてもらえないしな。 

おれの出身高校では近代史自体あまり詳しく教えてもらえなかったから 
日清戦争だけ知識がないわけではないけども。
12名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/30(火) 06:23:35 ID:kRKmf0Fc0
日清戦争の目的ってなんだったの? 
朝鮮が魅力的だったのか?
14名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/30(火) 14:19:03 ID:YUZOzg2q0
日清戦争と普墺戦争は戦争目的が酷似してるんじゃないかな? 
プロイセンはオーストリア帝国を排除して帝国を建設。 
日本は中国の影響を日本周辺から排除し、朝鮮半島を近代化しようとした。 

つまり、東アジアの覇権はあったと思う(領土争いではなく) 
近代の革命は一国では収まらない。 
明治維新も同様で、日本人がアジアの他国へ輸出しようとした推し進めたと思う。
13名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/30(火) 10:32:44 ID:ydHMTq/Y0
日清戦争の開戦目的は、それに関した文献もろくに残っていないので 
現在では特定が難しいそうだ。以下、俺の勝手な推測だが 

朝鮮は別に魅力的じゃない。
だが、あれをとっておけば南下してくるロシアと戦争になった場合、
戦場が日本列島から朝鮮半島や満州に移る。 

日本の領土が戦場にならないほうが、国防的にも産業育成のためにも 
なにかと都合がいい、と当時の日本人が考えたからじゃないかな。
15名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/30(火) 16:21:48 ID:NzP9nF1rO
>>13 
「取っておく」というより「清の属国状態」では 
今にも欧米の支配下に置かれてしまうことを怖れた結果の開戦ではないかと…。 
でなければ戦争終結後の講和段階で「独立」させずに 
直接植民地にしていたのではないかと。
24名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/19(日) 23:01:10 ID:W4XEiw5D0
日清戦争についてわかりやすく書いてある本を探しています。 
ネットで検索したのですが、 
日清戦争についての本自体あまりなく 
どれがいいかもわかりませんでした。 

どなたかよろしくお願いします。
25名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/19(日) 23:49:21 ID:i44oL8Bu0
基本になるのは、信夫清三郎『増補日清戦争』や藤村道生『日清戦争』でしょうか。 
もっと前だと田保橋潔がいまだに評価が高いですね。 
とりあえず『蹇蹇録』を読むという手もありますけれど。 

蹇蹇録 (中公クラシックス)
陸奥 宗光
中央公論新社
2015-03-24



新しいものでは斎藤聖二『日清戦争の軍事戦略』や既出の原田本でしょうね。 

日清戦争の軍事戦略
斎藤 聖二
芙蓉書房出版
2003-11


もちろん岩波新書のシリーズのでもいいですけれど。 
親米保守色が気にならないなら岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』にもやや詳しいです。 

陸奥宗光とその時代 (PHP文庫)
岡崎 久彦
PHP研究所
2016-10-14



黒野耐『参謀本部と陸軍大学校』では日清戦争に一章費やしてるのでこれもいいです。 




でも日露に比べて戦闘経過について知識を得るのに苦労する戦争ですねぇ、やはり。 
35名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/24(金) 19:46:47 ID:XkpF14hT0
かなりの博打だと思うけど成算があったのかね? 
陸では勝てても海軍戦力はひかえめに言っても若干不利だし。
36名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/24(金) 20:34:10 ID:JlNV6fwI0
あったろうね。というかそれ以前に両国があわや戦争か? というは一回あったし。 
だからこそ、陸奥はあれだけ強固に派兵を主張した。
伊藤大統領は背後にロシア帝国がいることを理由に否定的だった。 

海軍で7対3、陸では圧勝というところじゃなかったけな。
旅順なんて取られたら逆に攻撃されるから、自分らで砲台を破壊していたそうな。 

黄海、威海衛で勝利して、相手の戦艦を壊滅させたから、
その後の攻撃は実質日本からの一方的な占領地増加政策だったんだよな。 

確か、一番多い死因は凍傷だったそうな。満州は相当寒いから。
37名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/29(水) 19:37:19 ID:nUJXYBRY0
>>36 
日本がというか、陸奥はなんで清と戦争したかったんだろう。 
伊藤も反対してたんでしょ? 

優勢だった海軍力でも、勝てる確証があったわけではないだろうし、 
海軍が負けたら陸軍がかてないだろうし。 
海軍も陸軍も戦争未経験の新造軍隊でしょ? 
なんで清にかてると確信したんだろ。
38名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/29(水) 20:39:54 ID:2q1de7s30
海軍が優勢といっても新型小型艦ばかりで、
戦艦に分類される艦は当時の日本には一隻もない。 
清国の2大戦艦に対抗するため三景艦を取得したものの実戦では役に立ってない。 
装備面ではいいとこ互角じゃないかな? 

黄海海戦では戦術と乗員の質で勝ったけど、
やはり定遠、鎮遠を沈めることはできなかった。
40名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/30(木) 04:11:23 ID:PWagmzyN0
>>38 
どうやら、日清戦争は日本にとっても負けるリスクが 
それなりに高い戦いだったのかな? 

なんか明治天皇とか伊藤とかは乗り気じゃなかったのに、 
陸奥が推し進めたって感じがするのだが、 
陸奥は日清両国の戦力分析をどう考えてたんだろう。
44名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/09(日) 01:18:46 ID:oLRJDKc/0
日清間の条約締結の交渉を始めた明治3年から20数年。
この間、条約改正問題、台湾事件、琉球問題、朝鮮事件第1回から第4回までと、
年を経るごとに日清交際関係は険悪になって、政治的にも、思想的にも、感情的にも、
また朝鮮に於ける権益と、ここまで対立すれば後はもう戦争するしかないという
ところまで来たからねえ。 

ま、中国は日本を「やたら西洋の真似をする軽佻浮薄の一小島の野蛮国」と嘲り、
日本は中国を「頑迷愚昧の一大保守国」と侮蔑し憎悪する関係になった時点で、
両国の兵が会すれば衝突するだけのこと。 
で、それが明治27年7月だったってこと。
89名無しさん@お腹いっぱい。 2009/02/20(金) 01:44:34 ID:dnGX+VkH0
清に朝鮮の独立を認めさせるための戦いだよね。
49名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/10(月) 12:46:20 ID:NPlC7AIMO
韓国の教科書では「朝鮮は自ら清国の影響から脱する事を決定し、
1897年国号を大韓帝国と改めた」とか書いてあるらしいな 

テレビで聞いた時は笑っちまったよw 
全て日本の決定だっつーの 
あんな弱小国が自力で独立なんて出来るはずねーだろ
50名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/10(月) 14:57:12 ID:IbD7oqDF0
あの半島の人々がそれくらいの捏造をするのは想定の範囲内。 

明治時代の日本人も、さぞかし手を焼いただろうな。
54名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/25(火) 14:10:27 ID:mfvScF4j0
日露戦争はゲームや映画やドラマや漫画になってるのに、 
日清戦争はゲームや映画やドラマや漫画になってないね。 
だから知名度が低くてマイナーなのかな?




55名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/22(月) 01:19:32 ID:F3zrvd+50
実は明治元年から日清戦争の明治27年までの日中関係が、
後々の関係に重要な影響を与えているんだが、ほとんど知られていないよなあ。
56名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/22(月) 01:26:13 ID:F3zrvd+50
てなわけで、日清戦争に至った経緯を自分なりに調べたところをここに記したい。 
誤りや疑問なところ、ご指摘を。 

「日本と清の関係 」

 徳川幕府時代の日本は、清に対しては長崎へ船の入港を許すのみであった。明治となり既に西洋各国と条約を結んで通商をしているにもかかわらず、隣国清との間で条約関係がないのは貿易発展上不利であり、また日本国内に滞在する清人の扱いに関しての規定も必要であることから、日本政府は清と政府間条約を結ぶことにした。 

 明治3年(1870)7月、日本政府は「今は文明開化となって国の交際も盛んになり、我が国は遠く西洋諸国と盟約を結んで交際している。まして隣国である貴国とは最も情好を通じて和親を結ぶべきである」と述べて条約交渉を清政府に申し込んだ。 

 清はかつて英国との阿片戦争以来の困難な外交政策を立て直している時期でもあり、日本を清の外援としたい目論見もあってこれを承諾。 

 明治4年(1871)7月、日清修好条規、日清通商章程を調印。清政府草案に基づいたこの条約には日清攻守同盟と見まがうような条項もあり、これこそが清政府が日本を外援となさんとする目論見によるものであった。
 
 しかし西洋各国から、もし清国と外国との間で戦争となった場合は日本も巻き込まれる危険性があるとの指摘を受け、それで日本政府は翌年に条約改正を申し込んだ。しかし清政府はこれを拒否し、よって日本政府はそのまま批准した。(後の日清戦争により失効)
57名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/22(月) 01:28:48 ID:F3zrvd+50
「台湾事件」 

 明治4年(1871)11月、当時鹿児島県に編入されていた琉球(沖縄)の船が難破して台湾東部に漂着。乗っていた宮古島の人間69名の内54名が現地土民から殺害されるという事件が起きた。

 また明治6年(1873)には小田県(現岡山県西部と広島県東部)の人が乗る船が台湾に漂着し、土民から船を破壊され荷物衣類一切を奪われるという事件が発生。 

 これにより日本政府は、台湾は清国領土であることから、同年、折りしも日清条約批准のために清国にいた副島種臣特命全権大使にそのことを談判させた。 

 しかし清政府は、「台湾東部は化外の民であり、清政府に責任は無く、またこれを逮捕することもしない」と返答。 

 よって日本政府は自らの手で解決することとし、明治7年(1874)4月、その罪を問い、また事件再発防止を目的として日本軍を派遣した。 

 すると、清政府は俄かに態度を変じ、台湾蕃地は清に属すると主張して撤兵を要求。よって日清政府間で談判となり、その結果、清政府は日本に行軍一切の軍費の償却金を支払い、今後は外国人を害させないことなどを約束した。しかし公文を以ってこれを保証することは国家の体面にかかわると主張して公文書とすることを拒否。

 一方、日本側は公文でなければ約束保証とはならないと主張し、議論は対立し遂に談判決裂になろうとした。 

 この時、日本国内ではごうごうたる清国非難の声が上がり、政府に対して清国と戦争となるならと、義勇兵、義捐物資、義捐金の申し込みが殺到した。 
 しかしこの後に英国公使が日本と清の間に立って調停し、ようやく軍費の支払いと事後処理を約束して決着した。
58名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/22(月) 01:33:53 ID:F3zrvd+50
「朝鮮と清」

 朝鮮はかつて清の侵攻を受けて降伏し、その属国となっていた。それは形式的な朝貢に止まらず、冊封という清皇帝の命によって国王の地位を封したものであり、清の属国の中でも筆頭の地位にあった。 

 しかし朝鮮は日本に対しては清の属国であることを隠蔽し、国王が日本に宛てた書簡などでは、国内で使用せねばならない清の年号を使わずに「干支」を使用した。

 その一方で、日本幕府に朝貢使として往来した朝鮮通信使は、清の権威の下に「巡視」という旗を立てて東夷(東の野蛮)の国である日本を巡検するを名とし、また迎える日本人に対して「清道」というもう一つの旗を見せ、道を清めよと命じながら行進した。

 朝鮮の意識としては、その国家の地位は、宗主国である清国が最高地位にあり、朝鮮はその臣下であり、一応日本は朝鮮と対等の地位にあるとしていたが、海の向こうの国である日本はより下位となる「東夷」と見做していたからである。 

 朝鮮の中では清の属国であることを快しとしない考えもあった。それは、朝鮮の政治や制度は総て明の時代のものを写したものであり、明亡き後はその儒教体制と共に朝鮮こそ「聖教賢伝」の国であると誇り、且つかつては野蛮族と卑しんでいた満州族が立てた清王朝を密かに蔑むところがあった。

 しかし歴史的経緯とその国力の差に於いて、朝鮮は清の属国であることに甘んじなければならず、またそれ以上に清に事大し阿諛せねばならない地位にあった。
59名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/22(月) 01:48:45 ID:F3zrvd+50
「日本、清に属国の意味を問う」

 明治8年(1875)の朝鮮江華島に於ける雲揚号への砲撃事件により、日本政府は朝鮮の宗主国である清に対して事件のことを知らせ、またその宗属関係のことなどを問うた。 

 清政府はそれに対して、「朝鮮は中国の属国であるが、内政も外交も朝鮮の自由に任せており中国はこれに関係しない」と回答。そこで、日本政府としては、内政外交が自主ならばすなわち独立国であるとして朝鮮との条約交渉を進め、明治9年(1876)2月に日朝修好条規を締結。その第1条では「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」とした。

 当時、条約交渉に於いて朝鮮側からは、日本の草案のこの条に対しては何ら異議は唱えず、また自国が清の属国であることも述べず、ただ日本と対等の地位にあることにのみ拘った意見が出されている。
6456 2008/12/22(月) 22:52:06 ID:F3zrvd+50
「琉球問題」 

 琉球王国は慶長年間に薩摩島津家に降って以来、実効支配を受けてその隷属となっていたが、清にも朝貢を行い、あたかも実に於いて島津に属し、名に於いては中国に属するかのような姿であった。 

 明治4年(1871)、日本政府は琉球を鹿児島県の所領に編入。翌年5年には琉球王を華族に列した。明治8年(1875)に明治の年号使用と儀礼一般を日本同様にさせ、清への隷属を禁じて日本領土であることを明らかにした。次いで明治12年(1879)3月には琉球藩を廃して沖縄県を置いた。 

 ここに至って清政府は日本政府に対して、「琉球国は世々中国の冊封を受け入貢して今に数百年となるは天下の国の共に知る所である」と琉球が清の属国であることを主張。これに対し日本政府は、琉球の歴史、文字、言語、神事、風俗、法律など、総て日本のものであり、また琉球王が島津家に対して世々子孫に伝える忠義の「誓文」などを上げて反論した。 

 明治12年(1879)、清政府は日本を訪問するグラント元米国大統領に琉球問題の調停を依頼。日本政府と会談したグラントは清政府に対して、日本は清とは和平を望んでいるとして日本と和睦の会談を開くよう勧告した。よって清政府は日本政府に会談を申し込んだ。 

 明治13年(1880)8月、各国との条約改正を願いとする日本政府は、琉球問題も絡めて清が各国と締結している条約にある内地通商のことなどを日本も各国と等しく享受できるよう改正を求め、その対価として宮古・八重山諸島の清への譲与を提案し、これを以って琉球問題を終結させることとした。 

 59日間に及ぶ日清の協議の結果、琉球問題の終結と日清条約改正と2島交付のことなどが議定された。しかしその後、清政府内では、日本のような弱小国に譲歩する必要はないとして議定に対する反対意見が多くなり、遂に調印を拒否。議定した公文も撤回した。 

 よって日本政府はこの清政府の不誠実の対応を非難し、協議内容を世界各国に公開して以後は琉球問題には応じないと宣言した。 しかしその後も清政府は琉球問題は未解決として繰り返し協議を要求し続けた。(日清戦争後に止む)
6556 2008/12/22(月) 22:58:47 ID:F3zrvd+50
「朝鮮事変と主権侵害」 

 台湾事件、琉球問題は、清にとってはその世界観である中華秩序を揺るがす出来事であったが、日本が朝鮮に進出する恐れもあると懸念した清政府は、その宗属関係を西洋諸国に認めさせ、また日本に対する牽制となると見て、朝鮮に対し西洋国と条約を結ぶように指導した。 

 朝鮮は日清両国以外の国との交際は拒否し、依然として開国を拒む鎖国状態にあったのである。 

 まず米国との条約交渉を清政府主導で行い、条約文に朝鮮が清の属国であることを明記しようとした。しかし米国政府はこれを拒否。よって別の公文に属国であることを表記する形式で合意し、明治15年(1882)5月に米朝条約を締結させた。朝鮮はこれにより事実上開国し、後にはイギリス、ドイツ、ロシアなどとも条約を結んだ。 

 しかし、朝鮮国内では西洋国との交際を忌み嫌う守旧派の人々がこれに猛反発。中でも清に事大して開国を進めた王妃一族とは最も対立する人に国王実父の大院君がいた。守旧派の中心人物である大院君は朝鮮独自の儒教政治を理想とし、清の属国であることも快しとはしない人であったが、明治15年(1882)7月に兵士が軍の待遇に不満を抱いて起こした事件を機として軍乱を起こすよう指示。

 よって首都の殆どの兵士とこれに付和雷同する乱民は王宮を襲撃し、守旧派と対立する政府要人や王妃一族の多くを殺害した。また朝鮮政府に西洋国との交際を勧告していた日本への反感から日本公使館(公使花房義質)をも襲撃し、王宮近衛兵に西洋式教練を指導していた堀本禮造を始め公使館職員など14人を殺害した。
6656 2008/12/22(月) 23:03:11 ID:F3zrvd+50
 この事変により朝鮮政府は大院君など守旧派が実権を把握し、清に倣っていた政府の仕組みも旧に復させた。また大院君は王妃も殺害するよう指示しており、乱後に朝鮮政府は王妃は死亡したと発表。しかし女官が死亡したのであって本人は密かに王宮を脱出して王妃一族に匿われていた。 

 日本政府はこの事変に対し、かつて日本も開国や維新を経る中で数々の内乱があった経験から、国の変革期には内乱が起きやすいものであるとの見方を示し、すぐに軍事的報復に出ることはせずに謝罪と賠償を求めることとし、朝鮮政府との談判に花房義質公使を派遣した。また王妃死亡のことを受けて弔意を表するため宮内省侍従長も同行させた。 

 一方、清政府は属国の変乱に対して直ちに軍を派遣し、やがて乱の首謀者を大院君と見て守旧派40人と共にこれを清国に拉致し、大院君を清国内に幽閉した。 

 その後、日朝協議の結果、朝鮮政府は日本に対し謝罪と賠償をすることとなったが、同時に日本政府は公使館の護衛を朝鮮政府に求めた。しかし朝鮮政府には実質上軍の統率は困難なことから今後は日本兵が護衛することとなった。 この時の取り決めを済物浦条約と言う。 

 かつて清政府は「朝鮮は中国の属国であるが、内政も外交も朝鮮の自主であって、中国はこれに干渉しない」と日本政府に説明していたが、国王実父であり執政者でもある大院君を拉致するという行為は、朝鮮の主権を侵害した最たるものであった。

 台湾事件といい琉球問題の対応といい、またこの朝鮮事変での清政府の行動といい、その言行不一致の態度は日本に清国への大なる不信を抱かせる事件でもあった。
6756 2008/12/24(水) 00:14:36 ID:No3kDq8g0
「日本の対朝鮮政策」

 済物浦条約の締結後、朝鮮国王は日本へ派遣した謝罪使節をもって密使とし、日本政府に賠償金の減額と危急の時の国王護衛を要請した。日本政府はこの要請を受け入れ、先ず賠償金50万円の5年分割払いを10年分割とし、国王依頼の護衛には日本公使館の護衛兵を充てることとした。また朝鮮政府が日本の銀行から借りて支払った賠償金10万円を国庫に入れずに銀行に預け入れ、もし朝鮮政府が銀行からの借り入れ金の返済が出来ない場合は、これを利子と共に返却することにした。また、後には賠償金の内の40万円を朝鮮の文明開化のための資金贈与という形で帳消し処分とした。 

 これら朝鮮への寛大な処置は、日本政府の対朝鮮政策が、賠償金などで朝鮮を疲弊させることにあるのではなく、朝鮮を富国強兵の国とすることによるものであった。 

 日本は条約締結以来、朝鮮に対し西洋文明を取り入れて開明に向い富強国となるよう繰り返し勧告し、そのための様々な支援を行った。以下それを列挙すると、 

・最新兵器の贈与(ガトリング回転砲や小銃) 
・軍事技術の供与 
・小蒸気船の贈与 

・日本と清の漢字新聞の贈与
 (当時朝鮮には新聞がなく世界の情勢を知るすべもなかった)
 また新聞発行技術者の提供 

・西洋医学の普及(医学書、また種痘技術などの供与、医療実施)  
・病院の設置(日本人も朝鮮人も診療を受けることができた) 
・写真技術、電気技術、学校教育、議員政治などの紹介 

・地球儀、地球全図、朝鮮地図、アジア東部地図、朝鮮海岸測量図などの贈与 
・法律書の贈与(国際法) 
・工業、建築、鉱山開発、石炭掘削、染色、繊維、合金、
 彫刻、石版、陶磁、ガラスなどの各種技術供与
 
・海底電信線の敷設 
・郵便制度支援 
・留学生の受け入れ、その他。 

明治9年(1876)から明治17年(1884)までの間だけでも
以上のようなものであった。
6856 2008/12/24(水) 00:16:27 ID:No3kDq8g0
 日本はペリー来航以来、富国強兵策の必要性を痛感し、その手段として国家を挙げて西洋文明化に取り組んでいた。日本にとって朝鮮はその近接した地理的条件もあって国防上重要な国であった。よって日本は朝鮮が独立国且つ中立国として位置することをこそ望み、朝鮮政府にも富国強兵策を勧告し、そのための支援を続けて来たのである。 

 当時西洋人の常識としての考えは、「およそ文明国が、非文明の人を征服するのは神の法則がさせるのであって、文化文明が進歩する上で喜ばしいことである(1885年
4月・英国紙ナインチーンス センチュリー)」というものであった。もちろんその文明とは西洋文明のことを指す。したがってアジア諸国は西洋国にいつ征服されてもおかしくないという情況下にあったのである。日本が朝鮮に勧めて共に開明に歩むことを求める理由の一つがここにあった。 

 また、日本政府はロシアの動向にも神経を尖らせ、やがてロシアが南進して朝鮮に進出してくることを警戒した。またこれは英仏独三国もそのように見ており、とりわけアフガニスタンの領土問題をめぐって露国と対立する英国は、日本に対して露国の朝鮮進出を警戒するように繰り返し勧告した。
6956 2008/12/24(水) 00:21:52 ID:No3kDq8g0
「再事変と日清の戦闘」 

 朝鮮政府内は、大院君が取り除かれたことから守旧派はほぼ排除され、清国に事大する王妃一族の閔族が実権を握り、支那党と呼ばれた。その一方で、日本の力を借りて開化を急ぎ真の独立国となることを願う日本党と呼ばれる人々も政府内でいくらかは力を得た。 

 そのような状況下に、明治17年(1884)の朝鮮政府内では朴泳孝、洪英植、金玉均、朴泳教ら日本党の勢いが強くなり、支那党である閔台鎬、閔泳穆、閔応植、趙寧夏らと対立して政争となっていた。

 やがて支那党は日本党を陥れて流刑に処することを計画。それを知った日本党はクーデターを決意し、これを日本公使(竹添進一郎公使)に相談した。竹添公使はその軽挙を厳しく戒めたが、12月4日、日本政府支援による朝鮮初の郵便局開設の祝典の時に、日本党は国王を擁してクーデターを決行。国王からは直ちに日本公使に危急の時であるとして国王護衛を依頼。よって竹添公使は、日本政府と国王との約束もあることから日本公使館護衛兵1中隊およそ120名を率いて王宮に入り、国王を護衛した。

 また、かつて日本陸軍戸山学校に学んだ日本党の朝鮮軍人は朝鮮兵を指揮して王宮を警護し、また支那党の要人を王宮に呼んで次々と暗殺した。 

 その後、国王は米英独3国の公使領事らも王宮に呼び国の変革の事を述べ、やがて各国公使領事が帰館した時に竹添公使も帰館を申し出たが、国王は尚も護衛を続けるように要請。よって警護を続ける中に国王は新政権の発足を定めた。

 新政権は日本党の者で殆どが占められたが、それを発令した時に王宮に銃声が響いた。京城駐在の清兵(1500人)の内の約千人が3隊に分かれて王宮を囲み侵入した後に突然日本の護衛兵を攻撃したのである。 

 よって戦闘となったが、清軍が教練している多数の朝鮮兵部隊は清軍と共に日本兵を攻撃した。この戦闘では日本兵3名が戦死し、清兵8名が戦死。夜になると清兵の攻撃は止み日本党の洪英植、朴泳教らは国王を伴って支那党の朝鮮兵に投降した。
7056 2008/12/24(水) 00:34:11 ID:No3kDq8g0
 これによって国王護衛の任が終わった竹添公使と日本兵は直ちに公使館に帰館したが、公使館に於ても清兵、朝鮮兵、乱民による攻撃が繰り返された。よって、日本側は仁川日本領事館に撤退し、その後公使館は放火を受けて消失した。 

 またその後、京城在住の日本人商人も清兵から襲撃を受けて36人が殺害され、また婦女は陵辱され、財産を略奪され、その他行方不明者もいることが判明。実は清軍の将である袁世凱が日本人の皆殺しを指示していたのである。中でも婦人ばかり12人が清兵に拉致されて清兵営に監禁されていたが、これは米国公使が袁世凱に談判して取り戻し、仁川の日本領事館に送った。 

 やがて事件の全容が日本に伝わると国民世論は激怒し、清と朝鮮を懲罰するために征服するべきとの声が日本全土に渦巻いた。しかし日本政府は日本保有の蒸気船の数の統計まで示して、戦争は出来ないと説き、また新聞条例を発令して開戦を煽る記事を禁止し、且つ朝鮮人や清人を差別的言葉で(韓奴、ちゃんちゃん、豚尾)呼称することを禁じ、国民世論が戦争に向うのを懸命に食い止めようとした。 

 この明治17年の朝鮮事変は日本人の心に清国への最も激しい悪感情をもたらし、その憾みが長年続くことになる大事件であった。
7156 2008/12/28(日) 12:41:20 ID:7fPh70rT0
「天津談判」 

 事変後、日本政府は朝鮮に井上馨外務卿を大使として派遣。再び朝鮮政府と談判になり、その結果、朝鮮政府が日本政府に謝罪と賠償をすることで日朝関係を修復することに合意した。 

 一方、清政府に対しては、朝鮮からの日清両国の同時撤兵と日本公使を攻撃した清将兵の懲罰と居留民被害の責任を要求することとした。 

 日本政府は、もし朝鮮に日清両兵がこのまま駐在し続けるなら将来必ず再び衝突する事変が起り、終には両国の戦争ともなりかねないと見ていた。よって、朝鮮からの両国の恒久撤兵を提案することとし、伊藤博文を大使として派遣した。 

 対する清政府は李鴻章に談判させた。明治18年(1885)4月、清国天津で談判を開く。 伊藤博文が主張する恒久撤兵に対し、李鴻章は、「朝鮮は中国の属国であるから中国には朝鮮に派兵する義務と権利がある」と主張。議論は平行線となった。

 また、伊藤博文が、「日清両国が朝鮮に対してはすることは、朝鮮が自治自衛できるように支援することに止めるべきである」と主張したのに対し、李鴻章は、「今まで支援をしたが、朝鮮は必ずまた内乱となって中国の派兵を求めるだろう」との見方を示した。また李鴻章は清将懲罰のことについては、「先に攻撃したのは日本兵である」と主張し、居留民被害のことも「清兵は規律が厳格でそのようなことはしない」と加害のことを否定した。 

 談判数回に及び遂に李鴻章は、「我が国は戦争の用意に取り掛かるほかはない」「我が国は仏国とすら開戦した」と発言。よって、清国との戦争を避けたい日本政府は、恒久撤兵論を取り下げて、李鴻章が言う「一時撤兵」を承諾。またその提案する「派兵する時は両国で互いに事前に通告する」という「行文知照」のことを承諾した。 

 しかし居留民被害のことについては議論の末に、李鴻章が「調査して清兵の加害の事実があれば李鴻章個人がこれを処罰する」と約束。
7256 2008/12/28(日) 12:42:34 ID:7fPh70rT0
 更に日本公使を攻撃した清将懲罰のことは、伊藤博文が第三者による裁定を求めることを提案し、その裁定者に米国大統領を指名したことにより、これを嫌った李鴻章が遂に譲歩して李鴻章が個人的に清将の軽挙を戒飭することを約束。談判は終結した。 

 この時の取り決めを天津条約と言う。条約文には、日清両国の朝鮮からの同時撤兵のことと、派兵する時は日清両国で互いに通告することなどが規定された。清将戒飭と居留民加害調査のことは李鴻章が別文を以って日本側に提出した。 

 しかし再び派兵することが可能としたことは、将来もし朝鮮で両国の兵が遭遇するなら軍事的衝突を起こして遂には日清間で国家戦争となることを約束するも同然のことであった。日本政府はその事を懸念して恒久撤兵を主張したのであるが、李鴻章は兵の規律を厳しくすればそのようなことはないと言明。

 しかし、実際の清兵の規律の悪さは日本人居留民に対してのみならず、朝鮮人に対しても暴行略奪が続き、日清戦争時に於いても当の李鴻章が「軍は通り道の家を襲い婦女を暴行し家財を略奪しており、これでは輸送の人夫を集めるのが困難である」と嘆かねばならないほどのものであった。 

 また清将戒飭のことも、清政府は条約締結後わずか5ヶ月で当の戒飭されたはずの清将袁世凱を政府高官に任じて朝鮮に駐在させた(公使のような役職)。袁世凱は事変の時に日本人の皆殺しを清兵に許可した人である。

 中国伝統の戦い方は敵は兵民を問わずに殺害するものであったからであったが、居留民加害と日本公使攻撃の責任ある人の朝鮮への赴任は、日本人の清国への敵愾心を煽り、その不誠実の対応に日本政府も大なる不快を覚えた。なお、居留民加害の調査の結果が日本に伝えられることはなかった。
7756 2009/01/16(金) 16:17:07 ID:Iiv6i/vs0
「露韓密約と天津密談」 

 天津条約により、日清両国が朝鮮から撤兵することを知った英国政府は、ただちに朝鮮南端の小島である巨文島を占拠し、艦隊基地とした。露国とアフガニスタン領土をめぐって対立する英国は、日清両国が撤兵したことにより、露国の南下政策のひとつとして朝鮮に進出することを警戒し、その牽制のために前進基地を朝鮮に設けたのである。 

 しかし、占拠は朝鮮政府の承諾を得たものではなく、朝鮮が抗議しても英国は動かず、また宗主国の清政府も、そのことを半ば容認した。よって朝鮮政府は、露国に接近することによって朝鮮の庇護を画策し、密使を露国に派遣して露韓密約を結ぼうとした。しかしこれは直ぐに清政府の知るところとなり、李鴻章は朝鮮国王に詰問状を送って、その密約を断念させた。 

 一方、日本政府は、もし朝鮮政府が露国の保護下にでもなろうとするなら、必ず他の西洋諸国もこの問題に干渉してきて、終にはこの極東の地域が大国に蹂躙されて戦乱ともなりかねないと大いに憂慮した。 

 よって、日本政府は、朝鮮の政治を小児の政治と判断し、朝鮮への多少の干渉となるも止むを得ず、清政府に対し、朝鮮政治への日本との共同指導を提案した。 
 
 指導は、朝鮮政府で有能な人材に政務を執らせ、その進退も清国政府の許可制とし、また顧問官として米国人を雇わせ、清国からも有能な駐在官を派遣して指導させ、これらを常に日清両政府で協議しながら事を進める、というものであった。また、これらは非公然に行い、その目的は、アジア全体に対する他国からの侵略を防ぐことであって、朝鮮の政治に干渉することを主意とするものではない、とした。

 天津に於いてこれを榎本公使と秘密会談した李鴻章は、この提案に大いに満足して賛成したが、後に態度を一変し、日本と相談して行うなら清は日本の指導を仰がねばならない地位となる、として日本と共同して行うことを拒否した。
7856 2009/01/16(金) 16:18:21 ID:Iiv6i/vs0
 よって、その李鴻章の管見と猜疑心に失望した日本政府は、終に日清共同指導を諦め、もはや朝鮮問題には関与せず、これを放任して成り行きを見守るという方針に転換した。また、明治17年の事変で、日本は国王の依頼を承諾して護衛兵を提供したにも拘らず、事変後に朝鮮政府が、日本が朴泳孝や金玉均らと謀って国王を拘束し、且つ政府要人を殺害したかのように主張したことにも、日本政府は大なる不快を覚え、以後は朝鮮を独立国とも富強国ともするための積極的援助を殆ど放棄した。

 もっとも、朝鮮政府の方から技術支援などを求めた場合は、これを受け入れている。例えば明治22年(1889)4月に、朝鮮政府が火薬製造技術の取得のために留学生派遣を申し出たことで、日本政府はこれを陸軍省火薬製造所に入学させている。 

 よって、明治18年以降は、日本政府は朝鮮には関与せず、一方、清政府が属国朝鮮との宗属関係を強化するために、朝鮮で様々な問題を起こしても、ひたすら傍観するのみという方針を貫くことになる。 

 しかし、このような消極策は外国人には理解できないことだったのであろう。たとえば、横浜外国人居留区に在住するフランス人ビゴーは、風刺画集を出版し、明治20年(1887)2月15日発行の雑誌トバエ(鳥羽絵)第1号に於いて、日本、ロシア、中国が、朝鮮という魚を釣ろうとする「釣り会」という風刺画を表した。

 西洋人にとって、例えばビゴーの母国が、明治18年に、清国の属国であったベトナムを奪い取って植民地としたことからも、同様に日本も隣国朝鮮をそのように狙っているだろう、という西洋人の常識が描かせたものだろう。 

 しかし、この見当違いの風刺画は、時に「漁夫の利」というタイトルを勝手に付け、更には、あたかも日清戦争に関係あるかのように、今日に於いても日本の学校教育の教材として用いられている。 

 今日の歴史教育に携わる者が、実は自国の近代史の詳細には無知であることの証のひとつであろう。
8556 2009/01/18(日) 21:02:10 ID:BxyuP2Yx0
「長崎事件」

 さて、明治17年朝鮮事変は日本国民に、清国への大なる悪感情を生じさせたが、当時の世論は事変での日本側被害のことのみならず、「朝鮮は清に隷属を強いられている」として、朝鮮の独立を求める声も大きかった。日本政府はそれに対し、天津条約によって清政府は朝鮮の独立を認めた、などという曲解の説明をして何とかなだめようと努めたりもした。 

 天津条約がなった後は、日清両国は関係修復に向けて努力せねばならない時期であった。日本政府が新聞条例を設けて、中国人のことを指すのに、「ちゃんちゃん」「豚尾」などという侮蔑語を使用するのを禁じたことなどは、その取り組みのひとつでもある。 

 しかし、清国は別の道をとった。それは、日本を怖れさせ、ひれ伏すようにさせる、という政策であった。 ベトナムをめぐる清仏戦争が終結し、すでに建造されていたドイツ製甲鉄巨大戦艦定遠・鎮遠の引渡しを見た清政府は、海軍を創設して艦隊を編成した。 

 明治19年(1886)8月、李鴻章は、「我が中国海軍は、以て日本に観して之を懾伏(恐れひれ伏すこと)せしむべし」と、定遠・鎮遠と巡洋甲鉄艦など、あわせて4隻を、突然、艦の修理を理由に長崎に入港させた。定遠・鎮遠は、当時世界最大級の戦艦であり、その艦名は、遠国を鎮定することを意味した。 

 さらには、上陸した清兵が長崎遊郭で乱暴を働いたことにより、日本巡査の取り締まりをうける事件が発生。翌日には、新たに上陸した清兵数百人が暴動を起こして長崎の市街を破壊。 

 取締りの巡査30人との間で争闘となり、市内は逃げ惑う人々と共に大混乱となった。やがて、憤慨した日本人多数が巡査に加勢し、ついに清兵は長崎の中国領事館内に逃走した。 この事件で、巡査が2名死亡し26名が負傷。清兵は死亡者8名、負傷者42名を出すに至った。 

 日本と清との間の条約である日清修好条規において、第13条には、両国の人間が相手国において乱暴狼藉などの犯罪を行った場合は、相手国の地方官が取り締まることが規定され、もし犯罪者が手向かいする場合はこれを殺してもいい、とまで記載されている。
8656 2009/01/18(日) 21:05:16 ID:BxyuP2Yx0
 しかし清政府は、日本巡査の行為を条約上の取締りと認めず、清兵を殺すための計画的な争闘であると主張。また、李鴻章はこれを、親が出るまでもない子供の喧嘩であり、日本が公平に巡査を処罰すれば、清国は納得する、などと述べた。 

 しかし当然日本政府は、これを条約上の問題であると主張して対立。日清両政府で議論数ヶ月に及ぶも解決せず、当時日本国内の一大問題となった。 やがて、日本政府が折れて政治的解決を提案し、ついに翌年2月に喧嘩両成敗として、互いに自国で処罰し、相手側の死傷者に対して賠償する、という方法で決着した。
 
 国の実力の前には、条約はあってなきがごときものであることを、日本人に痛感させた大事件であり、明治17年の事変に続く再びの恥辱と損害にも、当時の日本人が歯噛みをしながら耐えた事件である。 

 後に日本政府は、巡査ほとんど全員が負傷しながらも、取り締まりに奔走したことを讃えて賞与したが、これを清政府に知られることをはばかって公表をせずに行った。 

 一方、清政府は、日本に中国の海軍力を見せて怖れさせるという目論みが、かえって多くの清兵の死傷者を出したことを憤り、李鴻章などは、「今度こそは日本を一撃せん」と放言するに至った。しかしこの言葉は、清軍顧問官のドイツ人によってドイツ公使に伝わり、やがて日本人一般が知ることとなった。 

 当時の福岡警察署長であった湯地丈雄は、長崎事件を調査して清国の脅威を痛感し、かつて日本が、元・南宋・高麗の連合軍から侵略を受けた、すなわち元寇の地である博多には記念碑の一つもないことから、記念となる施設を建てることを全国に呼びかけ、国防の大事を説いて日本中を回った。 

 日本人が心から中国人を敵視し、また蔑むようになったのは、この頃からであるが、当時、長崎事件として知られたこの事件のことは、今日の歴史の教科書に見ることもなく、授業で語られることもない。