成績
  356勝 201敗 勝率 .639(不戦勝1、不戦敗12)
 ※355勝 189敗 勝率 .653(不戦勝、不戦敗を除く)


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同世代との比較
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┃年度│年齢┃羽生│森内│佐藤│村山│郷田│屋敷│丸山│藤井│先崎│深浦┃
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┃1981│11歳┃無級│無級│無級│無級│無級│無級│無級│無級│三級│無級┃
┃1982│12歳┃四級│五級│五級│無級│六級│無級│無級│無級│二級│無級┃
┃1983│13歳┃初段│三級│一級│五級│四級│無級│無級│無級│二級│無級┃
┃1984│14歳┃二段│初段│初段│一級│一級│無級│五級│無級│初段│六級┃
┃1985│15歳┃四段│二段│二段│二段│二段│四級│二級│無級│二段│四級┃
┃1986│16歳┃四段│三段│四段四段│二段│初段│二段│三級│三段│一級┃
┃1987│17歳┃四段│四段│四段│四段│三段│三段│二段│一級│四段│初段┃
┃1988│18歳┃五段│四段│四段│五段│三段│四段│三段│初段│四段│三段┃
┃1989│19歳┃竜王│四段│五段│五段│三段│四段│三段│三段│四段│三段┃
┃1990│20歳┃棋王│五段│五段│五段四段棋聖四段│三段│五段│三段┃
┃1991│21歳┃棋王│五段│六段│六段│四段│六段│四段│四段│五段│四段
┃1992│22歳┃竜王│六段│六段│六段王位│六段│五段│四段│五段│四段┃
┃1993│23歳┃四冠│六段│竜王七段│五段│六段│五段│四段│五段│四段┃
┃1994│24歳┃竜名│七段│前竜│七段│五段│六段│五段│五段│六段│五段┃
┃1995│25歳┃竜名│八段│七段│八段│六段│七段│六段│六段│六段│五段┃
┃1996│26歳┃名人│八段│八段八段│六段│七段│六段│六段│六段│五段┃
┃1997│27歳┃四冠│八段│八段│八段│六段│棋聖│七段│六段│六段│六段┃
┃1998│28歳┃四冠│八段│名人│九段│棋聖│七段│八段竜王│六段│六段┃

┃1999│29歳┃四冠│八段│名人│九段│八段│七段│八段│竜王│七段│六段┃
┃2000│30歳┃五冠│八段│前名│九段│八段│七段│名人│竜王│八段│六段┃
┃2001│31歳┃竜王│八段│王将│九段│棋聖│七段│名人│前竜│八段│七段┃
┃2002│32歳┃竜王│名人│棋聖│九段│九段│八段│棋王│九段│八段│七段┃
┃2003│33歳┃名人│竜王│棋聖│九段│九段│八段│九段│九段│八段│七段┃
┃2004│34歳┃四冠│名人│棋聖│九段│九段│九段│九段│九段│八段│
八段
┃2005│35歳┃三冠│名人│棋聖│九段│九段│九段│九段│九段│八段│八段┃
┃2006│36歳┃三冠│名人│二冠│九段│九段│九段│九段│九段│八段│八段┃
┃2007│37歳┃二冠│名人│二冠│九段│九段│九段│九段│九段│八段│
王位
┃2008│38歳┃名人│前名│九段│九段│九段│九段│九段│九段│八段│王位┃
┃2009│39歳┃名人│九段│九段│九段│九段│九段│九段│九段│八段│王位┃
┃2010│40歳┃名人│九段│九段│九段│九段│九段│九段│九段│八段│九段┃
┃2011│41歳┃二冠│名人│王将│九段│棋王│
九段│九段│九段│八段│九段┃
┃2012│42歳┃三冠│名人│王将│九段│棋王│九段│九段│九段│八段│九段┃
┃2013│43歳┃王座│名人│王将│九段│棋王│九段│竜王│王位│九段│棋聖┃
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1969年度生まれ:村山、佐藤
1970年度生まれ:羽生、森内、藤井、丸山、郷田、先崎
1971年度生まれ:屋敷、深浦

赤がプロデビュー黄色が初タイトル青がA級


【対戦相手別勝敗】
大山康晴 1勝 0敗   田中寅彦 6勝 1敗
二上達也 1勝 0敗   福崎文吾 2勝 2敗
有吉道夫10勝 2敗   
谷川浩司 4勝13敗
内藤國雄 9勝 3敗   島 朗  6勝 6敗
加藤一二 3勝 1敗   南 芳一 4勝 4敗
米長邦雄 4勝 8敗   森下卓  6勝10敗
中原誠  4勝12敗   
塚田泰明 3勝 2敗
青野照市 4勝 2敗   阿部隆  6勝 2敗

佐藤康光 4勝 6敗   屋敷伸之 2勝 2敗
羽生善治 6勝 7敗   
深浦康市 1勝 1敗
森内俊之10勝 5敗   木村一基 1勝 0敗
郷田真隆 1勝 4敗   三浦弘行 4勝 0敗
丸山忠久 5勝 4敗   久保利明 1勝 1敗
藤井猛  2勝 1敗   
先崎学  2勝 2敗


【先崎学さんの追悼文】


今、僕は東北の温泉に居る。静養のためである。 行く前に、三つ、誓いを立てた。 
一、酒を飲まない。
二、嫌なことを思い出さない。
三、嫌なことに触れない。 

 そこへ、村山聖が死んだとの知らせた入ってきた。 死というのは常に意外なものであるが、半ば予期していたことでもあった。一年くらい前、彼が、今まで指した将棋の実戦集を出したいと言いだし、ついてはどうしても僕に代筆を頼みたいといっているとの噂が入った。将棋指しが将棋指しの実戦集の代文をする。それを書かねば貧窮するわけでもないので断ろうと思ったが、手術の後の微妙な時期に実戦集を出したいということに、 彼の迫力を感じ、迷いに迷った。迫力というのはややこしい言葉だが、ありていにいってしまえば、 彼は、死期を悟っているなと思った。 

 深夜の居酒屋で、郷田、中田功と激論を交わしながら、 気合いで書くことに決めた。 
「彼が死ぬと思うから俺は書くんだ」酔った勢いで僕は叫んだ。 横で中田功がボロボロと泣いていた。 

 村山が東京にアパートを借りていた頃、たまに飲んだ。ワインが好きな男だった。
(この、だった、という言葉にまだ非常なる違和感を感じる)
二度ほど、急性アルコール中毒で病院に担ぎ込んだこともあった。 
二度とも、僕は点滴の横で彼の横で彼の鞄の中にある推理小説を読んでいた。   
一度目に倒れたとき、泥酔し、ほとんど歩けないような村山が、 勘定だけは割り勘にしようと言い張った。理由を訊くと、ろれつの回らない声で、 君には借りをつくりたくないと呟いたり叫んだりした。 

将棋指しがライバルに借りを作りたくない。 この神経は分からなくもない。 
が、それにしても彼は酔っていた。 ふらふらだった。それでも必死で財布からお金を出そうとする姿に、僕は一種の狂気と執念を感じた。  

 実際、村山はシビアな男だった。並の将棋指し以上にあらゆる勝ち負けにこだわった。麻雀をやれば、彼が勝っているか負けているかは一目で分かった。 
子供の頃から死を見つめて来た男にしては達観することがなく、お金の貸し借りには潔癖だった。そのくせ、大崎編集長と三人で飲んで世界普及のために若手棋士が金を出し合おうと冗談を言うと、次の日に百万円を用意してきて周りを慌てさせたこともあった。 

村山は普通の青年が当たり前のようにすることをしたいという願望が強かった。 
そのために麻雀を打ち、酒を飲み、人生を、将棋を、ときには恋を語り合った。 
 二人で飲んだとき、村山が、唐突に僕に向かって、「先崎君はいいなあ」と言い出したことがあった。 健康の話ならばいまさらという気がしたが、どうもそうではないようであった。 僕に、彼女がいるのを羨ましがっているようなのだ。 

 自分には夢が二つある、と彼はいった。 一つは名人になって将棋をやめのんびり暮らすこと。もう一つは素敵な恋をして結婚することだといった。大丈夫だよ、君をいいという人が必ず見つかるさ。僕は言った。ダメだ、こんな体じゃ。彼はふるえた。そして呟くように言った。 死ぬまでに、女を抱いてみたい・・。 

 それから、彼は堰を切ったように家族の話をしはじめた。母に心配されるのが一番辛いといい、 自分には兄貴がいて、これが、自分に似ずに格好いいんだわ、 と何度も何度も繰り返していった。そして、東京に来て嬉しいことは、皆と麻雀をしたり、君とこうして酒が飲めることだといって、倒れた。 二度目の点滴のことである。それが、最後の二人の席になった。

村山が膀胱癌になったと聞いたとき、様々に僕はショックを受けた。彼が小さい頃から患った腎臓以外のところが悪くなったのもショックだったし、酒や麻雀などの不摂生で自分が片棒を担いでしまったかとの思いもあった。それにもまして、彼の二つの夢が、どちらか一つでも死ぬまでに叶うのだろうかと思った。彼の体を心配してくれる女性は母親以外にいるのだろうか。 彼は恋をしているのだろうか。 

 村山聖には志があった。名人になりたいというでっかい志が。と同時に普通の青年として生きたいという俗人としての欲望もまた強かった。強く、せつなく、そして優しく悲しい男だった。 

 今、この文章を読んだ方は、決して忘れないで頂きたい。 そして語り継いで頂きたい。平成初期の将棋界を駆け抜け夭折した男は、将棋の天才だったと。と、同時に人間味溢れる青年だったと。今、僕の誓いは二つ目と三つ目が脆くも崩れた。仕方がないので、僕は酒を飲んで君のことを思い出すことにする。 


【佐藤康光さんの追悼文】

 村山死す、の報は8月10日、連盟で所用を終え、お昼を食べに行こうとした時に知らされた。私は彼の病状を詳しく知らなかったが、気にしてはいなかった。そんな事がある訳がないと思っていた。彼と最後に会ったのは4月16日、羽生-森内の全日プロ決勝を観戦に行った時。普段と変わりなく熱心に検討する姿があった。あれからわずか4ヶ月。本当に突然であった。 

 彼との最初の出会いはいつだったか。小学生の時対戦している筈だが覚えがない。私が東京に来たこともあり、彼の存在をはっきり知るようになったのは彼が四段になってから。程なく私もプロになった。 順位戦参加は同じ昭和62年。彼は一期で昇った。以来、追いついては離されをくり返した。 

 彼とは2人で酒を飲んだり、遊んだりという事は一度もなかった。牽制しあう所があり、必ず誰かをはさんで行動していた。麻雀は何回か打った。 
 彼がA級になり東京に出てきた頃、彼が泥酔した事があった。私と滝先生(誠一郎七段)が彼のマンションへ運んでいったのだが車中、ゲーゲーとやられて参った。私の新車なのである。しばらく匂いが取れず困ったことがあったが今となっては懐かしい。

私の推測だが、私の将棋は全面的に彼に認められていなかったと思う。彼にとっては羽生さんしか眼中になかったかもしれないが、何げない一言や行動でそれを感じていた。彼は即興の将棋は嫌っていた。私の将棋は多少、そういう面を持っている。そうであれば仕方がない。手段は一つ。対局で盤を挟み、徹底的に叩きのめす他はない。私も燃えたぎっていた。 

 図は彼との最後の将棋。1月13日全日プロ準々決勝。ここから△8六桂▲8八香と進む。仲々迫力ある応酬と思う。以下数転したが私が幸いした。感想戦が終わり私が席を立ち、廊下から振り返ると彼がまだ座っていたのが印象に残っている。 

 大舞台で当たる機会も多くなり、いよいよこれからしのぎを削ろうかという時。本当に残念でならない。合掌。


【羽生善治さんの追悼文】

 8月10日、連盟で対局をしていると、昼休みに村山八段が亡くなられた事を知った。「そんな…」信じられない気持ちだった。 
 
 結局、4月に広島で行われた名人戦イベントの時に会ったのが最後になってしまったのだが、その時は楽しそうに検討に加わり、終局まで見ていたので、一年間、ゆっくり休養して来期から再び対局を続けると思っていた。 

 彼とは10局ちょっと公式戦で戦ったのだが、どれも重要な位置での対局が多く、印象深い将棋が多い。 図はその中の一局で、平成9年2月、竜王戦の将棋から。(便宜上先後逆)この局面で、私は二歩得で、△5八銀の狙いもあり、少し指しやすいのではないかと思っていた。 ところが、ここで予想外の強手を指され、自らの形勢判断が甘かった事を気づかされた。 
 それは▲3五飛で、△5八銀なら▲同玉△7八飛成▲5五飛、△4四銀なら▲3六飛△3七角成▲同飛△5八銀▲同玉△7八飛成▲3九飛(実戦の進行)でどちらの変化も先手が良いのだ。この一手は大胆で鋭い彼の将棋の特徴がよく表れているように思う。

もちろん、序盤の研究も深く、読みの正確さも高いのだが、勝負所を知る嗅覚の鋭さにはいつも感心させられた。 
 ある時、大阪で偶然、彼に会ったので、行きつけの定食屋さんに案内をしてもらった。将棋の事、好きな本や映画のことなど(彼は飄々と面白いことを言う)楽しい話を聞かせてもらったが、帰り際、今日も連盟に行って将棋の勉強をするという。 プロの世界だから毎日、訓練するのは当然のようだが、現実として続けるのはとても難しい。 

 棋士としてこれからという時にさぞ無念だったと推察するが、一つだけ確かなことがある。彼は本物の将棋指しだったと。 
 ご冥福を心よりお祈り申し上げます。


【山崎隆之さんの追悼文】

 「村山先生が亡くなった」突然の知らせだった。ウソダロ、ナンデダヨ。 
「ずっと体調が悪かった事は”絶対に知られたくない”との本人の希望で知らせなかった」心配されるのは好きじゃないみたいだった。病気がハンディだと思われるのや同情が大嫌いみたいだった。「知られたくない」か村山先生らしいなっ。 

 村山先生はお世辞の多いこの世界で僕が天才だのと言われ「オレが天才に見えるか天才が多い世界だなー」とやになっている時、「山崎君、弱いですよ」「山崎君も終わりかな」。四段になってからも将棋を見て「山崎君、もうちょっと強かったと思ったけどな」と見たまんまを言ってくれる人で、やる気も出るしうれしい気持ちにさせてくれた。歯に衣着せぬ人だったけど、根がやさしいから村山先生を嫌いな人なんて聞いた事がない。 

 よく僕達に食事をご馳走してくれた。焼肉屋さんに行った時、ひょんな事から自由ってあるかないかの話になり、僕達はあると言い、村山先生はないと言い、あるんだって気持ちをぶつけると、ないんだって気持ちがバンと返ってきた。こういう時、年が若いとか関係なく気持ちをバンと返してくれた。「自由ないよ」って言ってた村山先生が一番自由に生きようとしてた気がする。

音楽や本の話の時も「これメロディがいいんだよ」とか「これはね…」って熱心に思い入れなどを話してくれた。なんに対してもいいかげんな思いいれはしないようで将棋に対しては特にそうだった。 

 この前、村山先生の昔の記事を見た。「将棋は心が疲れる、負けた時は死ぬかと思う」「将棋に一生をかける価値はあるか」昨年、大手術をした時行ったら棋譜を並べてた。この言葉は本当の様な気がする。将棋に全力を出すとは思うけど、負けたら死ぬと思うとか一生をかけるとか図のたった八一個の桝目と四〇枚の駒に…。 
そこまでしないと全力を出すって事にはならないのか。どうやら相当自分は甘い考えをしていたみたいだ。 

 しかしほんとに精一杯生きるんだって感じですごく魅力的な人だ。村山先生好きな人たくさんいるから、たぶんみんなの心の中にずっと居るだろう。
 村山先生ありがとうございました。


【郷田真隆さんの追悼文】

 八月十日、将棋連盟で滝先生より村山君の訃報を知らされて、あまりに突然のことに言葉を失くしました。一年、或はもう一年、体調を戻して元気に復帰してくれるものだとばかり思っていました。 

 今年の初め、私が対局で大阪に行った時、遊びに来ていた村山君と、後輩の矢倉君と3人で麻雀を打ちました。それが村山君との最後の思い出になりました。そのあと一度だけ会って少し会話を交わしたのですが、それがいつだったのか、どうしても憶い出せません。 

 村山君と初めて出会ったのは、昭和五十八年、彼が奨励会入会の二次試験で他の奨励会員と対局している時でした。私は多分近くで対局していたのだろうと思います。あの独特の風貌に詰め襟の学生服姿が印象的でした。 

 付き合い出すようになったのは、多分私が二十歳前後の頃からだったと思います。凄いスピードで四段、そしてA級八段へと駆け上がっていった彼に、私はいつか追い付き追い越したいと、対抗心を持っていました。 

奨励会では対戦がなく、公式戦も数える程ですが、対村山戦はいつも気合が入っていました。 図は、そんな対村山戦の1コマです。逆転負けの悔しい一局でしたが、終盤、村山君が顔を紅潮させて、全身に力を込める様なその姿に、少しは本気を出してくれたのかな、とも思いました。 

 村山君が東京に住んでいた頃は、よく一緒に麻雀を打ちました。私の対局が終るのを彼が何となく待っている風な時もありましたし、私が早朝に彼を呼び出したこともあります。麻雀を打っている時の村山君は、将棋と同様に勝負に厳しい一面を見せながらも、いつも実に楽しそうでした。 

 私は彼のことが好きでした。盤上ではライバルであり、盤を離れれば仲間であり友人でした。それよりも何よりも一人の人間として、私はムラヤマヒジリが好きでした。もう、あの天才と盤を挟むことがないのだと思うと、本当に寂しい。そしてあの笑顔を見ることも------。一度でいいから、大舞台でお互い本気を出して、思う存分戦ってみたかった。 
 謹んで故人のご冥福をお祈り致します。


【米長邦雄さんの追悼文】

 村山君に初めて会ったのは、十一年前の大阪の彼のアパートだった。当時は東には羽生四段という桁違いの新人がいて話題になっていたのだが、西の村山聖も一歩も譲らぬ天才であった。六級から四段までを三年足らずで駆け抜けたスピード出世は並の人間には果たし得ないものである。彼の目を見て、これこそ真しく”純”なるものだと、今でもその強烈な印象が新鮮さを失わずに残っている。

 アパートの一室には、マンガの本が山積みされていて、その数は五千冊くらいであったろうか。小学生だった私の愚息を連れて行ったところ、その汚らしいホコリだらけのマンガ本に目を輝かせ、早速に読み出した。熱中して読みふける子供の瞳も、恐らくは同一のものだったに違いない。 

 新四段に夢と抱負を聞いてみた。 「引退する事です」 
この世の中で、これ程驚いた一言は無かった。新人は爪を伸ばし、髪の毛も長い。周囲が注意しないと一ヶ月くらい風呂に入らないという話だった。 
「せっかく伸びてくるのを切るのは可哀相じゃないですか」許されるのであれば髪は肩から腰の辺りまでは伸ばしたいらしい。「将棋は嫌いです」の一言にもたまげた。ゲーム感覚なら良いが、勝ち負けを争うのは性に合わないようだ。

この男は平安時代から、そのまま現代に生まれて来たかの如くに思ったのだが、今年度の将棋年鑑に彼の最後のアンケートの回答が寄せられていて「もう一度生まれて来たいとしたらいつですか」との問いには、宇宙以前とある。同時に「今年度の抱負目標」については、たった一行。生きる、と書いてあった。この三文字に込められた彼の願いを想えば涙を禁じ得ない。 

 五年前、新幹線で上京する車中から私の自宅へ電話をして来た。これからお伺いしたいとの申し出である。棋士総会の前日で、翌日は理事の改選の選挙があるから、当方も村山君の意図は読み取れる。電話の最中、彼は「あのうー、あのうー」をくり返すだけで要領を得ない。 
 「師匠の森信雄が出馬しますので、米長先生には是非ご協力していただきたく、これからご挨拶に参上します。こういう話しか?」逆にこちらから意向を伝えると「そうです、そうです」と言う。「来なくても君の思った通りにするよ」純なる者に、世俗の泥をすすらせないのは、せめてもの先輩の配慮であろう。 

 東京に住んできた頃には、既に病魔に肉体が蝕まれているのを知っていたが彼は、僅かな生活費の他は、ある団体に寄付していたまでは知らなかった。 
 本当に惜しい棋士だった。合掌。


【谷川浩司さんの追悼文】

 棋士は誰でも、「名人」に対して特別な思いを抱いているが、村山君ほど名人になりたいという気持ちが強かった棋士は居なかったのではないか、と今改めて思う。師匠である森六段にも、「名人になったらやめる」と話していたとか。腎臓の持病を抱えていた彼は、自分に与えられた時間が他人より少ない事を、敏感に感じていたのだろう。 

 昨年の6月に手術を受けた村山君は、一ヵ月後、順位戦に復帰する。抽選をしてからではもう休場はできない。万全の体調には程遠い形だったが、村山君にとっては、ここで休むと名人から遠ざかってしまう、の思いだけだったに違いない。 

 7月14日、その丸山七段との一局は壮絶な戦いだった。読者の皆さんも、この一局だけは絶対に盤に並べて、彼の名人に賭ける執念を感じ取って頂きたい。そしてそれが、村山君に対する一番の供養になると思うからである。
 

私は村山君とは十八局戦っていて、一番多いはずである。愛称は割合良かったのだが、順位戦だけは二局しっかりと負かされた。A図は、平成7年11月7日、A級順位戦。ここから▲9一角△同玉▲8三香成の順で寄せられた。この勝利で村山八段は三勝二敗と白星を先行させ、挑戦争いに参加している。 

 また村山君は同世代の羽生さんに対しても強烈なライバル意識を持っていた。その証拠に対羽生戦は六勝七敗の成績を残している。 

 彼のタイトル戦登場は、第42期王将戦で私に挑戦した時だが、羽生さんの持つタイトルに一番近かったのは、二年前、第46期王将戦だった。村山八段が三連勝、私が三勝一敗で迎えたリーグの行方を決める大一番は、平成8年11月22日に行われた。 
B図はその終盤戦。△5八飛成で一見即詰みのようだが、▲6八角が用意の逆王手。以下△4六歩▲6九銀△4七竜▲5七角打と進み、形勢不明の終盤戦が続いた。この直後に私が悪手を指し、結局負けてしまうのだが、179手、双方1分将棋で指し続けたこの一局は、対村山戦の中でも印象に残っている。 

 これで村山八段は四連勝。一敗者が居なくなった上に、この時点で村山八段自身も八連勝中と絶好調だったので、挑戦者は間違いなし、と誰もが思った。私もあれだけの将棋を指して負けたのなら、とサバサバした心境だった。だが、この対局を境にして、村山君の将棋に粘りがなくなるのである。あるいはこの頃、体の変調に気付いていたのかもしれない。

リーグ終盤に崩れて、結局プレーオフに。その一局も精彩がなく、あきらめていた私に挑戦権が転がり込んできた。ただ、その私も七番勝負では羽生さんに四連敗。口には出さなかったけれど、自分の夢を奪っておいて、ストレート負けで帰ってくるなんて、と内心怒っていたはずである。今となっては、その事を謝る事もできなくなったが-----。

 村山将棋と言えば、終盤力が有名だったが、私が対局した感じでは、卓越した序盤のセンスに特徴があったように思う。毎日のように将棋会館に顔を出し、昼間は棋譜を並べ、夜になれば今指されている将棋を研究する。大阪に住んでいた時はもちろん、東京に移った二年間も、将棋会館に一番近い所に住んでいた。正に将棋漬けの人生だった。 

 最後に会ったのは4月16日。大阪の芝苑で、全日本プロ第二局、羽生-森内戦が行われた時だった。「休場中の身なんだから、早く広島に帰って静養したら----」と言おうと思ったが、やめた。彼も、大阪に残って将棋を指し続けたかったはずである。 来年の4月には、また元気な姿を見せてくれると信じていたのだが----。あの、人なつこい笑顔を見る事はもうできない。そして、胃が痛くなるような終盤のねじり合いを彼と戦う事もできないのである。


増田裕司さんの追悼文】

 村山さんと初めて出会ったのは15年前。南口九段の将棋教室にいると、森信雄師匠と村山さんが遊びに来られた。中学2年の村山さんは一人黙々と詰め将棋を解いていた。この時まさか自分の兄弟子になって面倒を見て頂く人だとは思わなかったので、「今、何段」とか「奨励会は受けるの」とか気軽に聞いていた。会った印象は、とてつもなく将棋が強そうな雰囲気が漂っていた。 

 初めて将棋を指してもらったのは村山さんが奨励会の5級で、僕が研修生の時だった。師匠から将棋を指してあげてくれと言われて、村山さんは渋々指してくれた(見たいテレビがあったらしい)。 

 村山さんが奨励会の有段者の時は、連勝すれば必ず食事をご馳走してくれた。今考えると、将棋に勝てば人一倍うれしくて、負ければ人一倍くやしかったのだと思う。しかし、これ程将棋を指している時は勝負に厳しく、将棋を離れると繊細で思いやりのある人は珍しいと思う。特に、相手の気持ちを察するのが鋭かったように思う。勝負に厳しいといっても、相手を睨んでこの野郎というのではなく、将棋盤を睨んで真理を追求するタイプだった。

数えきれない思いでの中で一番うれしかったのは、僕の四段昇段パーティーの時、打ち合わせも何もなかったのに、自ら壇上に上がってスピーチをしてくれたのが忘れられない。 

 印象に残っている将棋は、村山さんが膀胱癌の手術をした後の復帰第一戦目。対丸山七段(当時)の順位戦である。この日は、師匠から、村山さんが心配なので終わるまで待機している様に言われていた。 

 控室のモニターには図の局面が映っていて、村山さんの勝勢である。夜中の1時半頃だったと思う。体調が万全の人でも意識が朦朧とする時間である。「終盤は村山に聞け」と言われる程、絶対的な終盤力を持ってしても、手術後、この時間まで指してる事自体、無茶である。午前1時43分、村山さんは逆転負けしてしまう。 

 命を削ってまで将棋に打ち込んだ村山さん。あまりにもあっけない。僕は、天才村山八段の弟弟子で本当に幸せでした。大変お世話になりました。


森信雄さんの追悼文】

 昭和57年9月、お母さんに連れられて、関西将棋会館の道場で会ったのが、村山君との初めての出会いだった。ワイシャツの袖をまくり上げ、足元を見ると裸足で、
「靴下をはかんとあかんぞ」 
「この子は冬でもこうなんです」 
ネフローゼのせいで、ふっくらしていて、すでに独特の風貌だった。ひと目みて、弟子にすることに決める。今にして思うと不思議な縁だった。 

 奨励会入会試験は合格したが、私が師匠になることで、厄介な問題が生じ、結局、自主的に入会を見合わす結果になってしまった。事情を知らない私の軽率さはあっても、大人の問題で、子供の村山君には関係ないこと。そう説得してまわったが解決できず、悩んだ末に折れてしまったのだ。「なんで、なんで奨励会に入れないの」村山君はワンワン泣き出し、今もこのときの姿が目に浮かぶ。

 このとき、決意した。「一年待てば堂々と入れるから、私にそれまで責任持ってあずからせて下さい」このときの事はもう過去の事なので、つらかったなあという印象しか残っていないが、それ以上に、村山君との運命的なものを感じる。

私は当時独身で、関西将棋会館の近くに住んでいた。村山君が初めて家に来た日、さっそく盤駒を取り出し、パチンパチンとたたきつけるように棋譜を並べ出した。お母さんに聞くと広島の家でも毎日、「名人になるんだ!」と叫びながら、勉強していたそうだ。「駒音を静かにな」。

 ある日、私の家で研究会をしていて、学校から帰った村山君と一局指す。横歩取りからの手将棋で、早指しで野性味のある将棋と思った。私の必勝形になった瞬間、王手をうっかり、村山君がさっと私の玉を取った。みんな、あっ気に取られ「師匠の玉を取る弟子がいるか」。 

 村山君は狭い机の下にフトンを敷いて、もぐり込んで寝ていた。初めの頃、私が手料理を作ったが、まずくてやめる。
一度、食事の片付けで洗いものをさすと、「森先生、手がきれいになりました」。 
 
学校から帰るとすぐ連盟道場に行き、私が迎えに行って、食堂で夕食を一緒にしていた。私が夜遅くまで麻雀をしていると、雀荘まで村山君が来て「先に帰って、寝ときや」と言っても待っていた。子供の頃から病院生活が長かったせいか、ひとりで寝るのをさみしがっていたようだ。 

 ある晩、40度近い熱が出た。氷で冷やすのだが、
「森先生、今、何度ありますか?」 
「うん、39度やなあ、大丈夫か」 
しばらくして
「今何度ですか。42度になったら、僕死にます」
体温計をみると、41度を超えていたが、「うん、40度やなあ」とごまかした。
朝方、熱が引いた。 

 一度、散髪に行かないので、髪の毛をつかんで引っ張っていったことがある。泣きながら抵抗したが、これに凝りたのか、たまに行くようになった。二人とも風呂が苦手、顔を洗わない、歯を磨かなくても平気、奇妙な同居生活だった。

 会館ですれ違うと、村山君が私を見て「まずい」と姿をかくし、何でもないのに「こらっ」が二人のあいさつだった。とても愛敬があって、人気者だった。体調のことは、いつも油断できなかったが、いつのまにか弟子以上のものを感じるようになった気がする。 

一年たち、奨励会入会試験も無事にクリアし、やっと村山君の棋士人生がスタートした。奨励会に入り、休むことが多かったが成績は抜群で、どんどん昇級していった。 

 病院から奨励会に出たこともある。そんなときは、広島からお母さんが来て、身の回りの世話をしていたが、たまに交代で私が病院に行き、いやがる村山君のパンツを洗濯したこともあった。少女漫画を頼まれ、大阪まで、探し回ったこともあるが、血生臭いのはきらっていた。 

 爪を伸ばし放題だったのも、「伸びてくるものを切るのはかわいそうだから」、やさしさと慈しみの気持ちの表れだったと思う。子供の頃、入院生活の病棟で、死んでいく子を何人も何人も見て育ったことも、村山君の人を見る目、人生を見透かす目を養ったのではないかと思える。 

 村山君の症状をめぐり、御両親、主治医の先生と、常にどういう判断をして、どう選択していくか、その話し合いの繰り返しだった。そして何より本人が、病気で制約された自らの人生をどう切り開いていくか、闘いと葛藤の毎日だったかもしれない。 

 今年の5月、ガンが再発して入院したとき、一切を伏せていた。病室の名札もかけず、電話も、外でしていたそうである。誰にも知らせるな、死去の際も密葬にするようにと、毎日のように言っていたらしい。師匠にも知らせるなと聞いたとき、ちょっぴりつらかったが、村山君に何か考えがあってのことだろうと従うことにした。御両親も迷っただろうが、ある日、電話で再発のことを知らされ、ショックを受けた。 

 食べてもすぐ吐き、40度の熱が出る日が続いた。痛みに耐え、薬にも頼らず、自分のからだで治そうという強い意志で、ガンと闘った。今年一年休場して、来期にかける目論見は無残に村山君を引き裂いた。40日間、放射線の治療を受けた甲斐もむなしく、転移した。 

 私は村山君にはもちろん内緒で、御両親からときどき、症状を聞くことにしていた。 
そして、辛抱強く待った甲斐あって、仕事のついでにさりげなく立ち寄れば、という同意を得て、時期をみていた。村山君を裏切らないようにと思いつつ、早く見舞って顔をみたいの気持ちだった。 

 平成10年8月8日、家から「村山君のお母さんから、さとし、もう駄目なんです」の知らせがあり、広島に向かう。電車の中の聞き取りにくい携帯電話が鳴って、訃報を聞いた。間に合わなかった。

広島駅で出迎えてくれたお兄さんの車で、平安祭典に向かう。村山君はフトンの中で寝ているようだった。ふるえと悲しみが交錯して、白布に手がさわれず、泣きくずれるよりなかった。まるいほっぺにさわると、今にも起き出しそうで夢を見ているようだった。鼻の頭に汗が一滴あって、ただ眠っているとしか思えなかった。 

 家族ではないけど、お通夜に出させてもらった。お父さんは「毎晩、毎晩、さとしと一緒にいる時間が、こんなに多かったのは初めてです。この子は病院の生活ばかりだった」。ひとりでいる時間が長かったなあ、村山君、つらかったけど、よく頑張ったなあ……。 お経を聞いている間、涙が止まり、静かな気持ちになった。

 8月9日、午前11時、お葬式にも出させてもらう。昨晩、御両親と村山君の遺影の写真を一緒に選んだ。テレかくしの伏し目がち、ネクタイがずれ曲がっている、いつもの格好だ。凛凛しい表情の一枚を捜した。 

 最後のお別れで、村山君にいっぱいの花を添えているときお父さんが「足の爪も伸び放題で……」となでてあげていた。遺髪を切ろうとしたとき、御両親が泣きくずれた。「さとし君、よく頑張ったね」。 
からだを蝕んだ悪魔ももういない。悔しいけど、これから静かな時間でゆっくり休んでな、村山君。 

 脱水症状、腸閉塞、最後まで痛みに耐え、病気と闘い、復帰する執念を捨てなかった。痛みがひどくなり、医者がたずねると、ようやく「うん」とうなずいたそうである。点滴に薬を入れると、急に飛び上がるように「これは何?おかしい」と言ったそうだ。

 症状が悪化しても、ずっと意識があったが、眠るように意識不明になっていった。最後のうわ言で、「○○○、○○○、2七銀」と将棋の駒を符号で、二言、三言、話してつぶやいたと言う。

平成10年、8月8日、午後零時11分、村山聖は永眠した。 
「満29歳の若さでしたが、その倍以上の人生を凝縮して生きてきたと、私たち家族は信じています。今まで本当に有り難うございました」お父さんの言葉である。 

 私は村山君との人生との関わりで、どれだけ彼を理解していただろう。 
とっても幼くかわいい面と、物事や人の心の奥を見透す、洞察のすごさの二面性が村山君にはあった。子供が好きで、やさしかった。 

 「師匠は弱いですから」と、あまり一緒に飲んだことはないが、酒も麻雀も強かった。純粋さからくる一本気なところもあったが、常に村山流の理詰めの考えによるもので、納得させられ、すべて任せていた。 

 村山君が、真っ白いお骨になっても、近くにいる、まだ遠くにいっていない気がしてならない。帰りの車で別れ際、お兄さんが「さとしはいつも覚悟はしてたんですけど、復帰するつもりでした。最後まで、復帰することをあきらめてなかったんです」。 
死んでも、村山君はいつも私のそばにいる、そう思うと、さみしくはない。 
 
 村山聖は汚れのない生をまっとうした。戒智山聖英居士、さようなら。